書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎著 ②

 前回の続きです。

 なぜ人間は、退屈を感じるのか。人間以外の生き物は、退屈を感じるのだろうか。この問いに、著者はこう答えます。人間以外の生き物は退屈を感じない、と。

 その理由は、人間以外の生き物は、「環世界」にとらわれているからだ、と。

 「環世界」について、著者はいくつかの例を挙げています。

 例えば、マダニ。

 マダニのメスは、オスから精細胞を受け取ると、木に登り、下を通った動物の上に落ち、その動物の血を吸います。血を吸う事で受精にスイッチが入り、同時にマダニ自身は死にます。死後、マダニの子供は血を栄養として成長します。

 マダニには、目も鼻も耳もありません。何も見えないし聞こえないし嗅げないし感じません。それならどうして木の下を動物が通るのが分かるのかというと、「酪酸」という動物が出す匂いだけは、感じる事ができるからです。木の上で待ち、酪酸の匂いがした瞬間に木から落ちる。目がないので、うまく動物の上に落ちれる確率はさほど高くはありません。どうやって動物の上に落ちたのか、地面に落ちたのかを知るのかというと、マダニは37度という温度だけは、感じる事ができるからです。落ちた先が37度であれば、マダニはその血を吸います。

 マダニは、「動物が来た」とか「動物の肌の上に落ちた」とかを認識しているわけではありません。酪酸の匂いがしたら足を離す、37度なら血を吸う、マダニの環世界はこの2つで出来ています。

 実験室で、マダニを何かにつかまらせておいて、試験管に入った酪酸を近づけると、マダニは下に落ちます。落ちた先に、37度にした布を置いておくと、マダニは布に口を突き刺します。布の下に水を置いておくと、マダニは水を吸います。

 これがマダニの環世界で、マダニはここにとらわれ、ここから出ません。

 

 著者は、また、別の例を挙げています。ミツバチです。

 ミツバチは、花の蜜を吸い、満腹すると、まだそこに吸っていない花があっても、一旦巣に戻ります。

 ミツバチに、大量の蜜を与え、吸わせてみます。と同時に、残酷ですが、ミツバチの腹に穴を開け、そこから吸った蜜が流れ出るようにします。すると、このミツバチは、いつまでも蜜を吸い続けるのです。十分吸ったから巣に戻ろうとか、時間がたったから巣に戻ろう、とは考えない。満腹になるまで、蜜を吸い続けるのです。そして、腹の穴のせいで、永遠に満腹にはならないので、永遠に蜜を吸い続ける。

 ミツバチの環世界は、「蜜を吸う」「満腹になる」「巣に戻る」で出来ていて、彼等はそこから出ません。

 

 一方、人間は、というと。人間は、とてつもなく多くの環世界を持ち、1つの環世界にとどまるという事をしません。1つの環世界から、すぐに別の環世界へ、更に次へと、ふらふら移動し続けます。1つの環世界にとどまれず、移り続ける為に、人間は「自分が本当は何がしたいのか」自覚できず、何をしていても、つまりどの環世界にいても、退屈してしまうのです。

 人間は、多くの環世界を持つ事ができる故に、1万年前の気候変動時、399万年続けた遊牧生活から、定住生活に切り替える事ができました。1つの環世界にとらわれている生き物には、それは無理でしょう。

 でも、399万年続けてきた遊牧生活において、人間の脳は高度な情報処理能力を持つようになり、これが、定住生活では発揮できません。1万年を1センチとすると、399万年は約4メートルです。4メートル対1センチです。まだまだ人間の脳が変化するのは難しいでしょう。人間は、高度な処理能力を持つ、つまり多くの環世界を持ちそこを頻繁に行き来する、そういう生き物です。

  

 人は、自由な時間やお金が欲しいと願います。でも、一旦、休める暇な時間が出来ても、何をしていいか分からない。自由に使えるお金を手にしても、何を手に入れればいいか分からない。人間は、自分をそこにとどめてくれる環世界を持たないからです。

 資本主義経済は、この人間の習性をうまく利用しています。暇は出来た、お金もある、でも選択肢を持たない人間に対し、広告やインフルエンサーを使って、暇つぶしのネタを提供し続けます。人は、あたかも自らそれを考え選んだかのようにそれらに影響され、同じ事をやりますが、やってもやっても、そこに充実感はありません。何かが違う。やはり退屈する。その環世界にとどまれない。そしてまた別のものを見せられ、それに影響され、手に入れ、やはり退屈する。

 

 どうしたら、退屈せずに暮らせるのか。その答えは、本書の最後に書いてありました。次回はその結論部分を書きたいと思います。お付き合いくださっている方、有難うございます。