書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎著 ①

 久しぶりの読書記録です。友人から勧められた本が、過去一番というほど、私の「意識の変化」を呼んだので、書き残しておきたいと思いまして。

 こちらです。 

  初版が2011年なので、約10年前の本です。内容は、新書に近いですが、新書よりはカジュアルな感じでした。

  さて。内容。

 まず一つの命題が出されます。

「現代人は豊かになり時間やお金に余裕があっても、自分が何をしたいのか、自分で意識する事ができなくなっている。広告の言葉によってはじめて、自分の欲望がはっきりするのだ。そもそも私達は、余裕を得た暁に、叶えたい何かを持っていたのか?」

 そして、その答えを、何人かの哲学者に求めます。

 パスカル曰く。

 「暇を与えられた人間は、退屈を紛らしてくれるものを求める。人間は部屋にじっとしていられず、気晴らしを求める。それは何でもよいが、条件がある。熱中できるものでなくてはいけないのだ。

 ウサギ狩りに熱中する。賭け事に熱中する。でも、ウサギが欲しいわけではない。人間は欲望の対象と、欲望の原因とを、取り違えているが、あえてそこから目をそらし、熱中できる騒ぎを求める。

 熱中する為には、負の要素がなければならない。お金を賭けずにルーレットをやっても熱中はできない。退屈する人間は、負の要素を求めると言える」

 

 ラッセル曰く。

 「退屈の反対は、快楽ではない。

 人は、今日を昨日から区別してくれる何かを求める。人は、毎日同じことが繰り返されるのに耐えられない。退屈する心が求めているのは、今日を昨日から区別してくれる<事件>である。その事件の内容はどうでもよい。不幸な事件でも悲惨な事件でもよい。退屈する人間はとにかく事件が欲しいのだ。

 一言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。

 人は、実は楽しいことなど求めていない。人が求めているのは、自分を興奮させてくれる事件である。

 これは言い換えれば、純粋な楽しさを求める事ができる人は少ないという事だ。楽しい事を求めるというのは、実は難しい事なのだ。幸福な人は、興奮ではなく、楽しさを求める事ができる人である。でも、たいていの人間は、楽しさではなく興奮を求める。興奮できるなら、それが負の要素であっても構わない。不幸になっても構わない。興奮さえできれば」

 

 そして、この本では、何故人間がそうなのかの解説が、更に進んでいきます。

 二足歩行できる初期人類は、400万年前に誕生したと言われています。この時の人類は、定住生活ではなく、遊動生活でした。一か所に暫く住み、また移動して別の場所に住む。こういう生活です。食べ物を採取で得ていたので、これが都合が良かったわけです。また、排泄物やゴミも、その辺に適当に捨てていても、すぐに移動するので問題ありません。

 人類が定住生活を送るようになったのは、約1万年前です。なんと399万年もの間、人類は遊動生活を続けていたのです。400万年を4mとすると、1万年は1㎝です。

 なぜ人間が遊動性宅を止めて定住生活を始めたのかと言えば、それは気候変動のせいだそうです(諸説あり)。遊動できる場所が、遊動できなくなり、人間は温暖な水沿いの地域に定住せざるを得なくなった。定住すれば、採取で食べ物を得る事には限界がある為、作物を育てるようになった。また、排泄物やゴミも、そのへんに捨て置く事が出来なくなり、排泄場やゴミ捨て場を作る必要が生まれた。家というものが出来、常にそれを掃除しなければならなくなった。

 作物を育てる事も、排泄場まで排泄しに行く事も、ゴミ捨て場までゴミを捨てに行く事も、家を掃除する事も、人類には「面倒くさいこと」で、「本来やりたくないこと」でした。だからこそ、人類は、399万年もの間、便利な遊動生活を続けていたのです。

 作物の出来は天候や害虫によって害を受け不安定だし、排泄場まで排泄しに行く事は、赤ちゃんがなかなか覚えられない事を見ても、本来人類がやりたくない事だったと分かります。今でも、掃除が苦手、整理整頓ができない人種というのは、一定数いますが、これはそもそも人類全体が、苦手な事なのです。それでも、定住生活をする為に、いやいやでもせねばならなくなったわけです。

 さて。

 定住生活が始まって、人類が最も苦しんだ事は何かというと、「退屈」なのです。

 人類の大脳は他の動物とは比べ物にならない程に高い処理能力を獲得しました。遊動生活は人に、多くの課題を強いるわけですが、その事は結果として、この情報処理能力を思う存分に発揮する事を可能にしたのです。

 新しい環境で生活する事は、非常に大きな負荷をもたらします。新しい環境の中で、生活の為に必要な情報や資源を素早く入手せねばなりません。そうした場面が日常的に頻繁に訪れる。これが人間のもつ潜在的能力にとって、とてつもなく心地よいものだったのです。

 遊動生活において、自分の肉体的・心理的な能力を存分に発揮することが、強い充実感をもたらしていたわけです。

 しかし、定住生活では、その発揮の場面が限られてきます。毎日、毎年、同じことが続き、目の前には同じ風景が広がる。

 パスカルの言葉通り「人間の不幸とはただ一つ、部屋の中に静かに休んでいられない事から起こるのだ」。つまり定住生活を送る人間は、退屈に耐えられず、自分を興奮させてくれる負の要素を含んだ<事件>を求めるのです。

 

 では。労働でこの暇を埋めたらどうか。労働が充実感をくれるのではないか。本書によれば、単純で繰り返しの多い肉体的精神的苦痛の多い労働では、人間の情報処理能力を発揮する事は出来ず、従って、労働はただ単に、苦痛なのだと。

 遊動生活では、単純で繰り返しの多い肉体的精神的苦痛の多い労働、はなかったのです。定住する事により、そういった労働が生まれたのです。私達はそもそも、もともと、そういう労働を、求めてはいないのです。

 

 人類の脳はもともと、遊動生活に向くよう出来ていた。また、399万年もの間、遊動生活を送り続ける事で、更に遊動生活向けに脳が発達した。1万年前に気候変動が起こった時、死に絶えた他の動物達のように、死に絶える事も出来たが、いかんせん人類は生活を定住に切り替える事が出来てしまった。しかし、遊動生活向けに発達した脳は、なかなか定住に馴染めない。私達の脳は、同じ場所に住み、同じ事を繰り返せるようには、まだ変化出来ていない。何しろ399万年VS1万年だ。

 退屈の苦しみとは、同じ事の繰り返し、危険のない興奮のない生活から起こるので、それに耐えられない私達は、興奮できる何かを求めてしまう。興奮できるものとは、負の要素を必ず含んでいる。

 でも、中には、いち早く定住生活向けに脳を変化させる事に成功した人類もいるにはいる。彼等は、自らの脳の高機能処理能力を、興奮でもなく、労働でもなく、ただただ「楽しみ」に使う事が出来る。

 今までのところをまとめると、こんな感じでしょうか。

 本書では更に、消費社会について、解説が続いていきます。こちらも本当に面白かったので、次回以降で書いていきたいと思います。

 今日はここまでで。ではまた~