書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

初めて経験したドクハラ③

 前回、前々回の続きになります。

 A歯科医から受けた心の傷を、どう癒したらいいのだろう?と考えていて、ふと自分の過去記事に目が止まりました。コチラです↓。 

 

oinor-i.hatenablog.com

 

 自分の記事でなんですが、一部抜粋します。

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  神仏は、人間が良い事をすれば、「それは良い事だ」と誉めてくれます(聞こえる能力のある人には聞こえます)。何かに悩んだ人間が神仏に尋ねたら、答えてくれます(聞こえる人には聞こえるし、聞こえない人にも分かるような現象を起こしてくれます)。そうやって、人間に親切に関わってくれますが、人間が悪い事をした時はスルーです。スルーというか、早い話、見捨てます。間違った事をした人間に対しては、神仏は手出ししないのです。

 じゃあ、間違った事をした人は、自分が間違っているとは気づけないじゃないか、とか、悪い事をした人は、悪い事したもん勝ちじゃないか、と思うかもしれませんが、そうではありません。

 人間が間違った事をしたら、いずれ必ず「宇宙神(神仏ではない)」の力で、それが間違いだと分からせられる事になります。そういう事態が必ず起こります。一度で分からなければ、何度でも繰り返し起こります。人間が自分の間違いに気付くまで、分かるまで続きます。

 平らに言えば、人間に、自身の間違いに気付かせるのは、神仏の仕事ではなく、「宇宙神」の仕事なのです。また、宇宙神によって何度も間違いに気づかせてもらっても、それでも極悪非道をやめない人は、波動が落ちまくってしまいます。餓鬼のレベルです。そうなると死後、餓鬼によって地獄へ引きずられていきます。波動の低さが合っているのでそうなるのです。高い波動の神仏は助けません。波動が合わないので、関わりを持てないからです。

 また、「責める」という能動的なことではなく、誰かに何かをされて「仕返ししたくなる」「恨みに思う」というような受動的な事の場合でも、神仏は、しないんですね。どんなに失礼なことを言われてもされても、スルーです。関わらない。例えば、境内で犬の散歩をしている人がいたとします。これは本来神様にとって失礼な行為なのです。神社というのは神様の家のようなものですから、そこで犬に糞や尿をさせる行為はとても失礼です。ですが、犬の散歩をしたからといって、神様から罰があたる、というような事はありません。スルーされます。ただ、神様の下で修行している眷属から怒られる(眷属は神様ほど高い霊格ではないので人間を叱ります)、という事はありますから、神仏に対して失礼なことはやめるべきなのですが、やってしまったからといって神様から直接怒られる、罰を与えられる、という事はないのです。 

 神仏は人間を責めません。責めずにはいられないような低い波動の人間とは、繋がりません。スルーです。それは、神仏が低い波動とは関われないという事情もあるし、低い波動は餓鬼や地獄や悪霊の方の管轄だからです。

 であれば。

 誰かの間違いに対して、責めたい気持ちが湧いてきた時、私はそれが神仏の管轄か、餓鬼地獄の管轄か、どちらだろう?と考えてみる事にしています。

 誰かの間違いを責めるたくなる時、その行為を担当しているのは餓鬼地獄である、と思い出せば、自然にやりたくなくなるからです。餓鬼地獄と波動として繋がってしまうのが嫌だから。

 これが、私なりの「人を責めないコツ」です。

 大事なのは、「人を責めない」という行為そのものではなく、「人を責めたいという気持ちにならない」という心の状態のほうなので、ただ単に行動として「責めない」を実行するだけでは駄目なのですね。「責めたい」という気持ちを持ったまま、それを実行に移さないように我慢する、のでは、駄目なのです。「責めたい」という気持ちそのものを消さないといけない。

 誰かにイラッとした時、人を責めるという行為は神仏の仕事ではない、餓鬼の仕事だ、という事を思い出す。それだけで心がサーッと平常心に戻って、「あ、責めるのは私の仕事じゃなかった。餓鬼がやってくれるんだった」と思え、責めたい気持ちが消えるのです。

 さらに追加するなら、神仏の波動と繋がる行為は、誰かを責める行為ではなく、誉める、支える、助ける、という行為なので、そこに思いを至らせれば、誰かを責めたくなる気持ちは、完全に消えます。やるべき事のほうに目が向くからです。 

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 私は上の自分の過去記事を読みまして、「ああ、そうだった、そうだった」と思い直したのでした。

 A医師がああいうドクハラ行為をやり続けていれば、いずれ宇宙神によって、その間違いに気づかされるような事が繰り返し起こる筈です。それでもA医師が自分の過ちを改善しなければ、いずれは餓鬼や悪霊の世界に落ちていくだけの事でした。

 知っていても、忘れてしまうものですねえ。。読み返してみて、ハッと思い出しました。情けないです。

 というわけで、私の心の傷は、癒えたというか消えたというか、そもそも傷つく必要などなかったのだという事が分かりました。私は何も悪い事はしていないのだから、私にこれ以上悪い事は起こらない。でも、A医師は別です。気の毒ですが、彼の人生に、良いことは起こらないでしょう。思い出してみるに、彼は腕は良かったのです。だから私は通い続けたのです。また、どういう手段を使っているのかは不明ですが、自分の病院を人気ランキングで常に上位に持ってくる事ができている、それだけの商才もある、という事です。でも、今思い返してみるに、A歯科医院は、さほど流行っている感じではなかったなあと思います(もっと早く気付くべきだよ、私)。腕もいい、商才もある、なのに流行っていない。A医師が患者に対して、あれほどキレるという事は、おそらく普段から沢山のストレスがたまっているのだと思われます。私が何かをしていかなくても、この世界は自動的にそうなっているのでした。

 

 そう思いついて、改めて今回の事を振り返ってみるに。

 今回、A医師からドクハラを受けた事は、私にとって、良い事だったのだと気づきました。

 そもそも私は、A歯科医院を「安心して通える、心から良い病院」だとは感じていなかったにも関わらず、他を探す面倒さから、ずるずると通い続けていました。歯についても、何かおかしいな、と感じる事があっても、A歯科医院に行くのが億劫で、放っておいたりしていました。

 今回の事があって、初めて、私は、本当に本気で、良い歯科医院を探さずにはいられなくなり、そしたらその日のうちに、母経由で他人様の推薦で、あっという間に、C歯科医院を見つける事が出来ました。

 今回のことがなかったら、私はこれからもずっと、A歯科医院に通い続けていたと思います。

 これから年をとり歯も悪くなっていく中、安心できない病院に通い続ける事ほど、不幸はありません。

 今回のことで、私は、安心して通える歯科医院に、移る事ができました。これは、本当にラッキーなことだと思います。

 どうして私がドクハラなんて受けたんだろう?と、一瞬神様を恨む気持ちがわいてきたりしましたが、時間がたち、落ち着いてよくよく考えてみたら、ドクハラを受けなければ、私は転院する事を考えないからだ、という事が分かりました。必要があったからこそ、こういう経験をしたのでしょう。

 結果的に、今、どこも困っていないのだから、何の問題もないのです。

 今回も、神様に守って頂いた、有難いとしみじみ思いました。

 

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