書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

弱者のいない世界

 弱者(子供・高齢者・障害者)のお世話をするお仕事において、虐待が発生するという現実について、ここ数日考えています。

 私が思うに、人間の遺伝子化学の発展からすると、本気で取り組めば、人類が子供期・高齢者期を経ずに済む、また障害者として産まれずに済む時代が来る事は、可能だと思います。

 生後1年で自立できる、75歳でさっさと死ぬ、そういう風に遺伝子を操作する事は、おそらく出来ると思うし、全ての障害について遺伝子を調べ上げ、胎児の段階で検査し堕胎するという事も、出来るでしょう。

 例えば、寿命操作なら、遺伝子の両端の「テルメア」を、75歳でスッパリ切ってしまうとか。テルメアが短くなると、その細胞は死にますから。逆に、癌細胞はテルメアが短くならないので、永遠に増殖を続けるわけです。その逆をやる。出来るでしょう、人が本気で研究すれば。

 胎児検査も可能でしょう。今はモラルの問題で、一部の障害(ダウン症等)以外には適用していませんが、やる気になれば、全ての障害に適用できるようになるはずです。

 

 人が本気を出せば、他人による世話を必要とする弱者(子供・高齢者・障害者)を、この世から排除する事は可能だと私は思います。

 では、実際に、弱者がいなくなり、他人の手を借りず自立的に生きられる若者と壮年だけが残ると、どういう世界になるでしょうか。

 私の予想ですが、多くの人間が魔に取りつかれ、闇に落ちる世界になるでしょう。すみません、スピっぽい事を書いて。

 

 人間は、優しくあると、損をします。ですが、周囲に、自分の優しさを必要としている存在(弱者)がいると、損を承知で、優しさを発動します。しない人もいますが、多くの人は、優しさを必要とされる場面では、自分に無理してでも、頑張って優しくあろうとします。

 優しさを必要とされないのに、自ら頑張って優しくあろうとするのは、困難です。頼まれてもいないのに、養護施設に寄付をする人はごく少数です。でも、自分の助けを必要としている幼子が目の前にいたら、誰しもがなんとかして助けようとするはずです。

 優しさは、それを必要とされる場面で、引き出されるものだと私は思います。

 そして、優しさは、人にとって、ある種のお守りなのです。

 見えない世界には、便宜上、神仏と呼ばれる存在がいるのと同時に、魔と呼ばれる神とは真逆の存在もいます。神仏が人を救うのを喜びとする一方で、魔は人が苦しむのを見るのが大変な喜びで、人を闇に落とそうと手ぐすね引いています。神仏と魔は同じパワーを持つ、人にとって真逆の存在です。

 優しさを発揮している人間を、魔は避けます。そこには魔が好む、人の苦しみが無いからです。そこには、優しくした人と、優しくされた人の、あたたかい心があるだけだから、です。

 私達は、優しさを持っているから、魔に落ちずに済んでいます。でも、優しさを失うと、魔に取りつかれてしまいます。

 

 弱者は、私達から、優しさを引き出してくれる存在です。この世に弱者がいるおかげで、私達は優しさを忘れずに持ち続けていられ、知らず知らずのうちに、魔を除けているのです。

 私はそう思っています。

 

 優しさの欠片もないのに、あたかも神仏に祝福されているかのように成功している人がいます。こういう人は、神仏ではなく、魔に取りつかれ魔によって支えられているのです。桜井さんの本によれば、魔は優しさの無い人間が大好きだそうです。そういう人の周囲には、その人によって苦しめられている人が沢山いるからです。人間の苦しみが魔の大好物であり、魔は優しさの無い人を応援する事で、周囲の人をより苦しめて(なぜあんな人が幸せに? おかしいじゃないか?)、喜んでいるのです。でも、魔はいずれ支えている人間を突き放します。魔の支えを失った人は、一気に落ちていきます。

oinor-i.hatenablog.com

 

 この世に弱者が存在する限り、私達は、自分の中に優しさを持ち続ける事ができます。でも、弱者が消えると、私達は優しさを維持できなくなり、魔に付け寄られるでしょう。

 優しくある事はとても大変なことですが、それでも頑張って優しくあり続けるのは、自分を救う為だと私は思っています。相手の為ではなく。