書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

愚かで幼稚で情けない

 息子が、とんちんかんな程度の低い幼稚にも程があるというような事を言ってきても、私は常に「そうだね。きっとそうなるよ」と肯定している、と前回の記事に書きました。

 今日はその補足を書きたいと思います。

 

 というか。ふと思い出したのです。

 私が高校生の時だったと思いますが、幼稚園の頃に買ってもらった犬のぬいぐるみを、まだ持っている事について、母から叱られた事がありました。「信じられない」と。「子供じゃないんだから」と。「なぜ、そんなものを」と。「他の人から見てどう思われるか」と。心底つくづくガッカリした、驚くほど愚かである、常軌を逸している、というニュアンスを込めて、散々に叱られ、ぬいぐるみは捨てられました。

 私は、あまり被害者ぶって自分の気持ちを書き綴る、というのが好きではないのですが、その時の辛さは今でも覚えています。私は小1で、母を見限りましたが、憎んではいませんでした。でもこの時初めて、母に対して「憎しみ」という気持ちを抱きました。母の言う事は確かに筋は通っている。古いぬいぐるみを後生大事に持つなど幼稚過ぎる恥ずかしいこと。母は正しい。私が間違っている。でも、だからこそ、その正しさで私を傷つける母が憎い。

 

 今でも覚えていますが、それは、ディズニーの「わんわん物語」のレデイーというコッカスパニエルのぬいぐるみでした。私は、後に一人暮らしを始めた時に、レディーにそっくりの子犬を飼い始めました。子犬を飼い始めた時は、ぬいぐるみの事は忘れていたし、というか、今この文章を書いていてはじめて、捨てられたぬいぐるみと、飼い始めた子犬がそっくりだという事に気付いて、私自身が驚いています。

 

 何が言いたいのかというと。

 親からしたら、子供の言動は、親にとって望ましいものであって欲しいものです。親の価値基準に即した子供でいて欲しいわけです。子供の言動が、親の価値基準から外れた場合、親は子供を叱って、自分の価値基準に合わせようとします。この行動をとる時の親は、自分自身の「子供を叱る」という行動は、子供の為だと思っています。愛ゆえに叱るのだと。

 でも、それは本当でしょうか。

 私は、あのぬいぐるみを、持っていてはいけなかったのでしょうか。それは確かに、幼稚園の頃に買った古いぬいぐるみに執着する事は、「恥ずかしい」事でしょう。でも、私は執着していたし、それで誰かに迷惑をかけていたわけではありません。ただ、そのぬいぐるみが好きだった。そのぬいぐるみが好きだという理由を、説明しろと言われたら出来ません。そこに合理的説明などありません。だから、「愚か」であり「人様から見たら恥ずかしい」と叱られても仕方ないのでしょうか。

 

 私は、息子の愚かで幼稚で筋の通らないめちゃくちゃな話を、すべて「そうだね」と肯定して聞くのは、それが息子にとってのぬいぐるみだろうと思うからです。いえ、ぬいぐるみだと気づいたのは今ですが。今までは、ぬいぐるみだという意識はありませんでした。ただ、息子の愚かさを否定してはいけない、と本能的に思っていただけでした。でも、今日これを書きながら、それがぬいぐるみと繋がりました。

 息子の突拍子もない話、現実には絶対にならない願いは、息子にとってぬいぐるみなのだろうと。

 なぜそんな事を考えるのか?願うのか?と聞かれても、合理的説明などない。人様から見たら、愚かで幼稚で筋の通らない滅茶苦茶な話。

 でも、だからといって、叱って否定してよいとは、私は思えない。

 息子が、そういう話をしたいならすればいい。そういう願いを持っていたいなら、持っていればいい。確かに幼稚です。馬鹿らしいです。でも、幼稚で馬鹿らしい面を持っているのが、息子なのです。そこを、しっかり認めないといけないと思っています。

 子供に親の理想を押し付けてはいけない、というような話ではないのです。そんなレベルの話ではない。子供が愚かだと、自分に迷惑がかかるから、子供の愚かさを矯正したい、それだけなのです。子供を立派に育てたい、というような素敵な話ではなく、ただただ親である自分が、子供の愚かさを見せられてイライラしたくない、というだけの話なのです。愚かな子供の後始末をしたくない、愚かな子供に迷惑をかけられたくない、だから叱って矯正する。

 これは、子供を良くするどころか、悪くする。と私は本能的に感じていました。

 

 私の母は、私の事を、平均より素晴らしい人間だと決めつけていました。平均より素晴らしい人間でなくてはならないのだから、叱るという方法で、私が母の願いの範疇から外れるのを阻止していました。でも、私は、母の規定通りの「素晴らしい」人間ではなく、「愚かで幼稚」な人間です。それは、母にいくら叱られても、なくなりません。「愚かで幼稚」な私も、私だからです。

 

 子供は、親の願うような、「素晴らしい」だけの存在ではありません。親ががっかりするような「愚かで幼稚で情けない」部分を多々持っています。それを見せられても、堂々と受け止めたいと私は思います。

 我が子は、素晴らしい面もあり、愚かで幼稚で情けない面もある。素晴らしい面だけを受け取るのではなく、愚かで幼稚で情けない面も、大事にしてやる必要がある。なぜなら、そうやって自分の全ての面を認めてもらう事が、子供を安心させ、その子なりの精一杯の人生を、進んでいく力になると思うからです。

 

 ぬいぐるみを捨てられた私は、後に子犬を飼いましたが、もしあのぬいぐるみを持ち続けていられたら、子犬を飼う事はなかったでしょう。犬を飼う事が無駄だったとまでは言いませんが、代替え行為として飼ったという意味では、何かしら足かせだったように思います。

 もし今私が、息子のあれを止め、それを否定し、これを止めさせたら、息子はいずれその発展形の代替えを求め、それが彼の人生の足かせになると思います。

 人間は愚かで幼稚で情けない。自分もそうだし、我が子もそう。自分はそれでもいい、でも子供のそれは認めない、では筋が通りません。息子の愚かさを正面から目をそらさず受け止め、逃げずに抱えながら生きていきたいと私は思います。

 

 

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画像をあげてから気が付きましたが、道路に足だけで立っている「モノ」があるように見えますね(Σ(・□・;)。あれは、ジョギングスーツの人が、前かがみになって靴を直しているところです。上半身がかがんでいるので見えにくく、足だけが立っているように見えて、「これ何?」と思われた方もおられたかも。写真を変えようかと思いましたが、せっかくあげたので、このままで 笑