書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

母の価値観、私の価値観

 先日、実母と、姉のことについて話していて、「ん?」と違和感を覚えた事がありました。

 姉のことについては、いくつか前の記事に書いたのですが、姉びいきの母も、最近ではさすがに姉のことを諦めていて、「どうしてあの子はあんな風になってしまったのか」と愚痴言うようになりました。

 理由を聞かれても私にも分からないので、「うん、そうだねえ」と適当に濁して聞くのみなのですが、ふと母が思いついたように、こんな事を言い出しました。

「でも、ほらたまにいるでしょ、同性愛とかいう人達。お姉ちゃんが、ああいう人達でなかっただけ、マシだと思わないとね」と。

 はい? しばし理解不能になり、少しづつ母の考えを聞いてみたら、こういう事でした。

 母は80歳を超えており、同性愛をモラル的に問題だと考えています(私は、まったくそうは考えていません。私は、同性愛はマイノリティーである、というだけであって、ただそれだけであって、道徳的モラル的ありとあらゆる観点において、何ら問題ないと思っています。ゲイの方々はむしろ、面白い方々が多く好きです)。

 母は、姉の事もまた、モラル的に問題だと考えています(これは私も同意します)。

 母の中では、姉のような道徳的におかしな事を止められない人と、同性愛であるという事が、問題があるという点において、等しいようです。

 母の価値観では、善悪は、世間体が良い悪い、とほぼ同じなようです。世間様に恥ずかしくない行為が善であり、恥ずかしい行為が悪である。

 その上で、同性愛の方々は生まれつきなので改善できないのに対し、姉は最近問題行動を起こすようになったのだから、何かのきっかけでまた元に戻る可能性がある。だから、同性愛の方々より、姉のほうがマシだ、と、これが母の思考のようです。

 母の価値観では、生まれつき問題を持っているよりも、後から問題行動を自分の意思で行う事のほうが、まだマシなのだそうです。直る可能性があるから。

 

 いやいや。ものすごい違和感。

 勿論、その場では私は、母に反論は一切しませんでした。反論されても聞く耳を持たないのは、姉と同じだからです。自分が絶対に正しいと思っている人なので、反論するだけ無駄なので。

 でも、私は、まず同性愛が問題だとは1ミリも感じません。生まれつきだから治らない、と母は言うけれど、そもそも、治す必要ないですから。同性愛だからって、誰かに迷惑かけますか?という話です。少数派で生まれてくる事が罪なら、うちの息子のような発達障害児に生まれてくる事だって、罪だという事になります。おかしな話です。

 一方、姉のように、自分の意思で、自分の役割から逃げ、子供を泣かせ、他人様に迷惑をかけて、「これが私、私は私のやりたい事をやるのみ」とうそぶく生き方は、罪以外の何物でもありません。生まれつき、何かしら精神的障害を持って生まれてしまって、そういう思考傾向を持ってしまっているならまだしも、姉の場合は、自分の意思で、そうしているのです。その間違った生き方を、直そうと思えば直せるのに、直さない。自分の意思で、直さない。そのほうが、遙かに罪が重いと私は感じます。

 私の価値観では、善悪とは、良心に従っているかいないか、です。良心に従う行為は善であり、良心に反する行為は悪です。世間体は関係ありません。

 同性愛で生まれる事は、良心云々とは次元の違う話で、何ら関係ありません。一方、姉の行っている事は、良心に照らし合わせてみても、恥ずかしい行為です。「自分さえよければいい」という考え方に従って生き、それを他人にも広めようとしている。罪深いです。

 また、私の価値観では、生まれつきそう生まれてしまったのであれば、それは本人の罪ではありません。でも、後から自分の意思で、問題のある生き方を選んだのであれば、それは本人の罪です。

 

 私と母の価値観は、真逆と言ってもいいでしょう。私は、母に育てられたにも関わらず、いつから母とは真逆の価値観を持つようになったのでしょうか。

 母が、「生まれつき、問題を持って生まれる事は罪だ」と考えているなら、母の孫である私の息子のことも、心の中では罪深い存在だと、考えているのでしょう。そんな事はおくびにも出しませんが。今は表面的だけでなく、本当に、息子のことはかわいがってくれていますが、そういえば母は、6歳ぐらいまでは顏を見るのも嫌、という感じで息子を忌避していました。今はかわいがってくれてはいますが、心の奥底では、息子のことを残念な存在だと思っているのでしょう。

 それにひきかえ、まだ姉は、もとに戻る可能性がゼロではないから、マシだと。

 そっか~。

 私は、どんな不幸な状態に生まれついても、自分の意思で、前向き一生懸命生きる事に価値があると考えています。逆に、幸福な状態に生まれついたのに、自分の意思で、後ろ向きに生きる事は残念な事だと感じます。

 私は、母とは違うなあ。。でもこれも、仕方ないこと。母を変えようとは全く思いません。母は母。私は私です。

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  「できるのにやらない」のと、「できないからやらない」のでは、母の価値観では前者のほうが上なのです。私は当然、後者がまだ、仕方ない、と思えるのですが。

 母は、「同性愛の人の親御さんって、どんなにつらいだろうね。だって治らないんだもの。私はまだマシだわ」と言っていました。

 母はまだマシ。その意味は、姉はもしかしたら元に戻るかもしれないから、もしくは、自分はちゃんとした子供を産むのは産んだ、産んだ後に子供がおかしくなったのは、私に罪はないから、私はまだマシ。そんな感じなのかなあと思いました。

 だとしたら、障害児を産んだ私は、母から見たら「親として耐えられない」レベルなのだろうなと、淡々と悟りました。

 そうだった、そうだった、母はこういう価値観だった、私はこの母の価値観の元で、20年以上、育ってきたのでした。昔から、母に対しては、違和感はあったのかもしれません。反論をはなから諦めていたので、違和感を持っていることすら、自分では意識していませんでした。

 母に対する大きな違和感を、自分の中に発見しても、発見する前と何ら私は変わりません。母も変わりません。