書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

発達障害児へのアプローチ・抽象的概念

 前回の記事の続きです。

 今回は、小学生の発達障害児に、抽象的概念をどう教えていったらいいのか、について書きます。

 頂いたご質問を、勝手ながら一部抜粋させて頂きます(ぽけ様、不都合であれば、仰っていただいたら外しますので、ご遠慮なく仰って下さい)。

息子は「好き・嫌い」という言葉は知っていても「得意・苦手」という言葉の意味は知らなかったことに最近気が付きました。それ以外も、お正月が1月とかもわからない。興味もないし、そもそも『お正月』というのがなんなのか、お年玉や羽子板のイラストを見せながら言葉で説明しても、わかっていない。なんなら自分の誕生日がいつなのかもあやふや・・・。自分がこの世に生まれてくるとか、それが何月だったのかとか、どうでもいいし、想像することも困難なんだと思います。こんなに物事を知らない、知ろうともしない、概念理解が難しい人にどうやって勉強を教えていけばよいのか、途方にくれます

 お母様の大変さが偲ばれます。お疲れ様です。

 ただ、お返事にも少し書いたのですが、「お正月」「お誕生日」「この世に生まれる」といった言葉や内容を、理解するのは、小学校の発達障害児には難しいのではないかと思います。

 理由はただ一つ。

 目に見えないから、です。

 発達障害児は、「目に見えない事は、分からない」子が多いです。ぽけ様のお子様も、うちの息子も、このタイプです。

 例えば、「この世に生まれる」というがどういうことかを、息子に理解させるには、犬の出産シーンを目の前で見せて、母犬の体から子犬が出てくるまさにその瞬間を見せるしかないです。息子の場合ですが、テレビやネットの画像では、何事につけ、理解がしにくかったです。やはり、目の前で、なまで見る、触る、持つ、経験する、事で初めて、その概念を理解しました。

 私は犬の出産シーンを息子に見せる機会はなかったので、息子が「生まれる」という事をハッキリ理解したのは、中学以降だと思います。中学ではかなり、言語理解が進んだので、言葉で説明されて「ああ、そういうこと」と分かる、という風になり、そこから抽象的な物事を、「言葉で」息子に説明し、どんどん教えていきました。

 

 小学校の間で、例えば「誕生日」を理解させるとしたら、目に見える事を積み重ねて教えるしかないと思います。

 ケーキに蝋燭をたてて、火を吹き消した後、食べる。

 ハッピーバースデーの歌を歌う。

 プレゼントをもらう。

 等の「行動」を一度にする日が、「お誕生日」である、と。つまり、目に見える「行動」の積み重ねで、お誕生日を理解させるのです。

 

 「お正月」も同じで、

 お節料理を食べる(いつもと違う「お重」に入っている料理がお節料理)

 神社に行ってお賽銭を入れてお願いをする(初詣)

 お祖母ちゃんからお金の入った小さい袋をもらう(お年玉)

 みんなで「あけましておめでとう」と言う

 これらを一度にやる日が「お正月」である、という風に教える。一つ一つの目に見える物や行動を積み重ねて、抽象的な言葉を理解させる、わけです。

 

 つまり。発達障害児に、抽象的な言葉を教える時は、「厳密に正しい理解」を求めるのではなく、「とりあえず今はそれでいい」という「現段階で、差し支えないレベルの理解」で由とするのが大事だと私は思います。

 きちっと理解させることを追求するのではなく、「とりあえず今はこのレベルの理解でOK」と割り切る事が大事だと思うのです。

 前回の記事にも書きましたが、発達障害児に完璧さを求めると、出来ない事は永遠に出来ませんし、分からない事は永遠に分からないので、結局、何一つ教えられない、という事になってしまいます。

 

 特に抽象的な概念については、目に見えないので分からない、のが大前提です。それでも、多少は分からせてやりたいので、目に見える物を積み重ねて、便宜上それで理解させる、という方法です。

 これは、その言葉の本筋の理解とはズレているし、正確でもありませんが、それでも、何も分からないよりはマシだと私は思っていました。

 いずれにしても、中学以降、言葉の理解が進めば、改めて正確に教えてやればいいので、小学校の間は、出来る範囲の理解で由とすればいいと思います。

 

 普通の健常児だと、教えるまでもなく、「お誕生日とは、自分がこの世に生まれた日の事だ」と分かるものですが、発達障害児では、教えてもこれが分かりません。

 なぜ分からないかと言えば、「生まれる」が分からないからで、なぜ「生まれる」が分からないかと言えば、「目に見えないから」です。

 生まれる、が分からない子に、お誕生日の概念を、正しく理解させる事は無理です。でも、なんとなく雰囲気理解させる事はできる。「ローソクをたてたケーキ」とか「沢山のプレゼント」とか「ハッピーバースデーの歌」とかの「見えるもの、経験できるもの」と、お誕生日、という言葉を紐づけさせる事はできるのです。

 小学生の間は、これで十分だと私は思います。

 

 抽象的概念から少し離れるのですが。

 コメントを下さった方が「興味を持とうとしない、知ろうとしない子に、教える難しさ」を書いて下さいました。これは本当にそうだと思います。

 健常児さんだと、人に興味があり、周囲に興味があり、どんどん人真似をして、物事をマスターしていくわけですが、発達障害児は、周囲に興味を持たない子が多いです。がっつり自閉している子でなくても、発達障害児であれば、大なり小なり自閉傾向はあり、この自閉というのは、自分の中に興味が留まる状態で、周囲が見えないというか、周囲は存在しない、ぐらいの勢いで生きています。

 その子にとって、存在しない周囲の物事に、興味を持たせる事は、ほぼ不可能です。その子にとっては、存在しないのだから。

 ではどうしたらいいのか。

 息子が小学校の頃に私がやっていたのは、息子の興味にとことん付き合う、という事です。幼稚園の頃は動物が大好きだったので、動物園にばかり連れて行っていましたし、また散歩が大好きだったので、毎日雨でも雪でも嵐でも雷でも、散歩に行っていました。発達障害児を育てていて、非常識とか言われるのを気にしてはいられません。

 徹底的に散歩に付き合うと、息子が見ているものを私も見るわけで、そこで物の名前をどんどん言っていきました。教えるというより、ただ私が言うだけで、本人に覚える気があれば一瞬で覚えるし、興味がなければスルーですが、何に興味があるのかこちらには分かりませんから、とにかく言う。それで結構語彙が増えました。

 また、そうやって徹底して息子の興味にこちらが付き合うと、不思議と息子自身が、興味の幅を広げようとし出す時が来るのです。

 動物園しか行きたがらなかったのが、行き先を動物園に限定せずに外出する(散歩する)事に移って行き、散歩を満喫すると電車に沢山乗りたがるようになりました。大阪には沢山の路線があるのですが、息子と私は、小学校の間に、全ての路線を乗り尽くし、特急にも急行にも乗ったし、お金はかかるけれども新幹線にも乗ったし、降りた先でまた散歩して、息子は出会う世界を広げて行きました。

 そういう風に、自分の興味を追い求める楽しさを、私は小学校の頃の息子に、徹底して教えたような気がします。

 「抽象的概念を理解したい」という欲求、「物事を知りたい、興味を広げたい」という欲求は、今ある興味をとことん満足させ広げた先に、あるものではないかと感じます。少なくとも、発達障害児においては、そうなのではないかと思っています。

 

 言葉は、言葉で独立しているのではなく、心と繋がっていると私は考えています。

 つまり、心がなければ、言葉もないのです。

 話したい、知りたい、聞きたい、言いたい、理解したい、そういう心が、発達障害児にはあまりありません。でも、心がないわけではない、という事は、育てている親が一番分かっていると思います。

 子供が今一番したいことをさせてやる。子供が今、何を考えているのか、どうしたいと思っているのか、何をしている時に笑顔なのか、どんなにバカバカしい事でも、幼稚なことでもいいじゃないですか。赤ちゃんの使うガラガラを、小学生になっても楽しく使って遊んでいたら、「赤ちゃんのもので遊ぶなんて恥ずかしい。情けない」と思ったら可哀そうです。「この子はガラガラが好きなんだな」と思ってあげたらいいのです。音が鳴るものが好きなんだな、じゃあ楽器を作ってみよう、とか、楽器屋さんに行ってみよう、とか、ガラガラ一つから広げていける世界は沢山あると思います。

 発達障害児は、親が「興味を持たせたい」「教えたい」と思う事に、ストレートに興味を持ってくれませんし、発達障害児の場合、本人に興味がない事を、教える事は不可能です。

 だから、興味の対象を押し付けるのではなく、子供を徹底的に観察して、何を喜ぶのか笑顔になるのかを見て、それをまずはやっていく、深めていく事で、興味の対象が広がる可能性があると思います。