ひや~、今日は寒いですね。家にいると、太陽ぽかぽかであたたかい日のように思えるのですが、一歩外に出ると、空気が冷たい、風が強い。午前中、用事があって少し出たのですが、急いで帰って来ました。ぶるぶる。
リビングにエアコンを入れて、それでも寒いから足元の電気ストーブもつけて、やっと良き温度になりました。これが1月だとさほどこたえないのですが、2月になって一旦あたたかくなってからの寒波なので、殊更寒く感じます。身体がなまっているのでしょう。
さて。
これは良く考える事なのですが、他人の欠点というのは、どうしてこうもよく見えるものなのだろう?という事。自分の欠点は、見えない(見ない?)のに。他人のものは、「いや、あれはヤバいでしょ」とすぐに気が付く。何故?
よくよく冷静に考えるに、私は「他人の欠点が気になる」のではなく、「その人が、自分の欠点を認めずに、事実を自分に都合よく曲解する」その言葉が、気になるのだと思います。間違いを間違いだと認めなさい、とぎゅうぎゅうに詰め寄りたくなるのです。
「他人のことなんだから、気にしなきゃいいのに」と思うのですが、一旦気が付いてしまうと、なんか気になる。
そもそも。
「そのまま、間違い続けると、ヤバい事になるよ」と気が付いたとして、それが何だというのか? ヤバい事になる、、、そのヤバい事って、どういう事? と、順々に自問自答してみました。気になるのを止めたくて。
で。
ヤバい事って、経済的に追い詰められる、親しい人間関係が全て切れる、身体を壊す、精神を壊す、何らかの責任を取らされて窮地に陥る、、、こんなところかなと思います。
で。
その人が、そういう状況になったとして、私に何の関係があるのか?という話なのです。何の関係もなければ、気にする必要もないじゃないか、という話。
私が気になってしまうのは、そういう人が、事実とは違う自己欺瞞を吹聴しているからです。「それは嘘だよね」「それはおかしいよね」と思ってしまい、「それは嘘だよ」「それはおかしいよ」と指摘したくなるわけです。自分をスッキリさせる為に。
でも、指摘したって、スッキリはしないのは分かっている。相手は、嘘だとも、おかしいとも、絶対に認めないですからね。曲解に曲解を重ねて逃げ通すだろうから。私が今まで出会って来た、ほとんど全ての人が、そうです。自分の間違いを、まっすぐ認めて、言い訳せずに、きちんと謝罪できる人なんか、この世に存在しません。人間というのは、そういうものです。間違いなく、私もそうです。
そもそも、「言葉」には意味がない、とそこまで極端に割り切ってしまえば、ラクになれるのだなと思います。その人が、何を言おうと、その人の事実はその人の現実の中にだけしかない、という事。その人の言葉と、その人の現実が、乖離していたら、見るべきものはその人の現実のほうだけ、という事。その人の言葉には、何の意味もない、という事。言葉に汲々とするのは、何の意味もない、という事。
ここまで割り切ると、やっと私も、気持ちが落ち着くのです。他人の事は関係ない、とやっと思える。
そして、何よりも大事な自分の現実を、少しでもよくする方向に、頑張っていこうと、やっと思えるのです。
言うだけなら、なんとでも言える。本当に、なんとでも言えるのです。大事なのは、現実。客観的事実。そこを見失わないようにしていれば、他人の欠点が気になる事は、私にはなくなると思います。