前回、「自分が間違った時は、反省・謝罪・改善」と書きましたが、これは自分に限った事で、これを相手に求めてはいけないと、思います。
つまり、相手が間違った時に、相手に、反省・謝罪・改善を求めてはいけない、という事です。
何故ならば、人間というのは、他人から自分の間違いを指摘されてもまず認められないからです。他人からの指摘で、自分の間違いを認める事が出来る人は、いないと私は思っています。ただし、仕事上の場合は別で、仕事上であれば、金銭を得なければならないという縛りがある為、人は自分の間違いを認めます。嫌々であろうが何だろうが、自分の間違いを認めなければ金銭が得られないのであれば、認めざるを得ないからです。でも、金銭のからまないプライベートな関係で、間違いを指摘されても、まあ認める人はいないでしょう。
だから、「自分が間違った時は、反省・謝罪・改善」をするというのは、自分自身に対してのみ発動すべきで、これを他人に求めるのは意味がありません。無理だからです。
話は変わるようで、少し繋がっているのですが。
発達障害の息子は、「自分が言いたい事は言いたいが、自分が言われたくない事は言われたくない」という、自分勝手な姿勢で生きています。どれだけ説明しても、これが矛盾していて自分勝手である、という事が、彼には分からないようです。
でも、ある時、私は気が付きました。
いや、この自分勝手さというのは、息子だけではなく、全ての人間が持っているのではないか、と。
濃淡はありますが、全ての人が「自分が言いたい事は言いたい。でも、自分が言われたくない事は言われたくない」という気持ちを持っている。つまり、自分は他人を批判したり、他人の矛盾や過ちを指摘したい。でも、自分が他人から同じ事をされるのは嫌。しかもそれを悪いとも思っていない。ただ上辺だけ、とりつくろっているだけで。
一方、発達障害者は、その気持ちを隠すのが苦手なので、人間関係で問題をおこしやすいだけの話ではないか。
健常者も、「自分が言いたい事は言うくせに、自分が言われたくない事は拒否する」という自分勝手な姿勢で生きているけれども、うまくごまかしたり、逃げたり、曲解したりして、自分勝手ではないように見せかけているだけではないか、と。
でも、相手からしたら、そのごまかしも逃げも曲解も全部見えているので、要するに「この人は自分勝手だな」と感じ、モヤモヤとした不満を覚える。逃げている人間に「あなたは自分勝手だ」と追い打ちかけるような事はやりにくいので、モヤモヤを感じたまま、諦める。こういう事が日常生活に沢山あって、だんだんと生きていくのがしんどくなるのではないか。
私は、「自分が言いたい事は言いたいのに、言われたくない事は言われたくない」という姿勢を持つのは、息子だけかと思って、いらだたしい気持ちを抱えていましたが、いや違うな、と思うようになりました。健常者だって、うまくごまかしているだけで、息子と同じなんだな、と思うようになったのです。
間違いなく私もそうなのです。うまくごまかしているだけなのです。
であれば、最初に戻りますが、他人に何か「正しさ」とか「フェア」というようなものを求めるのは、ナンセンス極まりないなと、そういう結論に至ったわけです。正しさとかフェアネスは、自分に対してのみ発動し、他人には求めない。人間というのは、すべて発達障害者の延長線上にいるのだと、思うようになりました。そしたら、息子に対する苛立ちも、不器用なだけなんだなという風に、見えるようになりました。
自分勝手なのは、みんな自分勝手なのです。健常者は、それをごまかす能力があるだけの事。いや、実際はごまかしきれておらず、他人からは自分勝手さを見破られているわけですが、自分としては、ごまかせたと思っているので、健常者は平然と生きていけている、そういう事だと思います。
そこまで割り切ると、いっそ清々しい気持ちになります。個人的な見解ですが。