書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

局所的思考しかできない

 引き続き、発達障害の息子への対応について考えた事を書いていく。

 主治医がよく言う言葉に「発達障害者の言う事を信じないように」というのがある。発達障害者の言う言葉には、意味がないからだそうだ。

 確かに、息子の言う事は、コロコロ変わる。昨日と今日で真逆な事を言うし、昨日やりたいと言っていた事を、今日は絶対にやりたくないと言い出す事もしょっちゅうある。ふりまわされて疲れ切る。

 例えば、ある旅行に行きたいと言い出し、ホテルを予約し新幹線のチケットも買ったのに、次の日には「やっぱり行きたくない」と言う。行きたくなくなったのだなと思うと、次の日には「やっぱり行きたい」と言う。それを繰り返し、最期には「行くか行かないか決められないからしんどい」とキレる。

 こんな事が日常茶飯事だ。

 全てではないが発達障害者の傾向として、局所的思考しか出来ないせいだと思われる。全体的思考は出来ないのだ。同時に、客観的思考が出来ず、主観しか持ち合わせていない。よって、自分が気になる点と点を結んで、その2点だけで辻褄を合わせようとする。その2点だけで辻褄が合っていれば良いのだ。

 でも実際は、社会は、その2点で成り立っているわけではなく、もっと大局的な見方をしないと実際にはうまくいかない。2点間だけ辻褄があっていても、3点目とは合わない事は往々にしてあるからだ。3点目と辻褄があわなければ、それはもう辻褄が合わないという事だ。

 息子の意見がコロコロ変わるのは、不安定な2点間しか見えていないからだ。やじろべえのように、ゆらゆらしてしまうのだ。大局的思考ができないので、思考が不安定なのだ。

 でも、それを息子に理解させる事は出来ない。3点目を提示しても、それは彼等の脳から排除される。ましてや4点目、5点目と見る視点を広げていくと、もう駄目だ。

 

 息子の言葉を受け取ってはいけない理由として、息子は言葉を局所的にしか理解していない、というせいもある。正しく理解していない。自分に都合のいい狭い理解しかしていないのだ。

 例えば、息子は私が息子に「寄り添っていない」と言い出す。息子の気持ちに寄り添っていない、と。寄り添う、という事自体、その言葉自体、息子は正しく理解できていない。息子の局所的思考では、寄り添うとは、自分の考えに私が同意する、という事だけを意味する。それが間違っていると指摘しても、理解できない。

 

 息子と共に生きる為には、息子に振り回されない事を心しないといけない。

 つまり、担当医が言うように「彼の言葉を信じない事」だ。信じない、というか、まともに受け取らないというか。何故なら、彼の言葉には意味がないからだ。彼の言葉はあまりにも局所的で、本来の意味を成していない。言葉を本来の意味で使う事を、彼は出来ない。

 言葉というのは、その意味を、大局的に掴む事が出来ないと、使えないものだ。

 言葉を、自分勝手な狭い解釈で、局所的に使う事しかできない息子から発せられる言葉には、本来のその言葉の意味は存在しない。よって、そのまま受け取ってはいけない。

 では、どうすればいいのか。

 

 これは多くの方からお叱りを受ける考え方だと思うが、私は息子を「犬」だと思おうとしている。犬は、目の前の事しか分からないし、先の見通しも立てられない。言葉の意味も、ある程度理解はしているが局所的だ。でも善意の塊でもある。なにより、我が家に来てくれた以上、家族であり、愛すべき存在なのだ。

 犬は人間ではないから、私の言う事が理解できなくてもがっかりはしない。人間ではないから仕方ない、と思う。この「仕方ない」という諦めが、息子と対する時にはとても重要になる。障害者だから仕方ない、と心底思えれば、息子と自分との間に境界線がひける。境界線がひければ、息子の言動に振り回される事はない。

 息子は医療系大学に行っており、知能的にはとても高い。だから私はつい誤解してしまう。息子の言う言葉をまともに受け取ってしまう。そして、昨日と今日で真逆の事を言われ、昨日言っていた事に合わせて走らされた自分が、今日は反対側に走らされる。明日もまた、めちゃくちゃな方向に走らされる事だろう。そしてへとへとになり、疲れ切り、病むのだ。カサンドラのできあがり。

 それを防ぐ為には、息子との間に境界線をひいて、いちいち受け取らない事しかない。いや、表面的には受け取るし、尊重もする。でも、心の中では「この言葉に意味はない」と分かっておく。「ただ言っているだけのこと。次の瞬間には別の事を言う。その次の瞬間にはまた別の事を言う。言葉と言葉に繋がりはない。繋がりはないから責任も感じていない」と覚悟しておく。諦めておく。

 

 発達障害者は心が弱い、とよく言われるが、それは、局所的思考しか出来ない為、実際には社会に通用しないからだと思われる。自分の頭で一生懸命考えて生きていても、社会に出るといちいち躓く。2点間しか見えていないから当然なのだが、本人は自分が悪いとは思えない。自分の中では(2点間では)辻褄があっているからだ。

 自分の中では辻褄があっているのに、一歩社会に出ると何ひとつうまくいかない、思ったようにならない、という事実に直面し続けるから、当然結果として心を病むのだ。

 彼が、局所的思考しか出来ない、という事を周囲はよくよく理解して、躓くポイントを前もって避けておく必要がある。障害物を外しておく。局所的思考でも、それでも生きていけるように、道を整えてやる。本人はそんな事してもらっているとは知らない。知らせる必要もない。本人には自分の局所的思考で問題ないと思わせておかないと、心を病んでしまうので。

 自分の2点間思考が通用しなと知る事は、世の中は足のつかないプールだと、彼に知らせる事と同義なのだ。不安感から、彼は泳げなくなる、つまり生きていけなくなる。

 彼の生きる場所を整える事は、ドッグランで犬を遊ばせるようなものだと思う。犬は自分がドッグランにいるとは思っていない。広い場所で走り回っていると思っている。でもそこは外の世界ではないのだ。外の世界は、犬には危険が多過ぎるのだ。

 今書いていて気付いたが、犬というと弊害があるから、3歳児と言えばいいのかもしれない。どちらにしても親が諦めるという事、前もって躓きポイントを全て外し道を整え安全な囲いの中で生かせていくという事を、やっていかないといけないと思っている。

 私の個人的な考え方なので、間違っているかもしれない事を、お断りしておく。