書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

時は流れない

 私は「時が流れる」という表現に、違和感がある。

 「流れる」という表現は、川が流れる、とか、空気の流れ、とかにもよく使われる。

 川の場合は、底や土手、つまり「流れない、固定された」土地の上を水が移動する事を「流れる」と表現している。空気の場合も、「動かない、固定された」建物なり人間なりの周囲を空気が移動する事を「流れる」と表現している。

 流れる、とは、何か動かない固定したものがまずあって、そこを別の何かが移動していく様を言う言葉ではないかと思う。

 一方で、「時」はどうなのか。

 私達は、全てが一時も固定されることなく、全てが刻々と変わり続けている。今この瞬間の私も世界も、次の瞬間には厳密に言えば、ミクロ単位で言えば、確実に変化している。人間の細胞は刻々と死に新しく生まれており、全ての瞬間で私を構成する細胞は変化し続けている。生き物だけでなく、無機物でさえも、様々な要因から変化を続けており、一時として同じ状態を保つ事は出来ない。

 つまり、「時」においては、何か固定されたものは存在しない。全てのものが変化し続けている。これを「流れる」と表現してよいのか?と思う。

 「時」の場合は、流れる、ではなく、変化し続けている、と言うべきなのではないかと思う。

 「流れる」でも「変化する」でも同じではないかと言われるかもしれないが、概念的には違うと思う。

 流れる、というと、あたかも同じ私が、固定された世界を、移動しているように感じる。

 でも実際は、私は、移動しているのではなく、変化しているのだ。今と同じ私は、もう2度と存在しない。何故なら私は永遠に変化し続けているから。

 

 世界は刻々と変わっている。私は刻々と変化している。固定されたものなど何1つない。そう思う事は、なにかしらの希望にならないか。