書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

友達とのライン

 私には学生時代からの友達が6人おりまして、私を入れて7人でライングループを作っています。数か月に1度、誰かがポンと書き込み、それにみんなが返信する形でラインの会話が数日続く、たまにみんなで会ってご飯を食べる、という感じの付き合いが続いています。

 学生時代の友達なので、一緒にいると気持ちだけは若返り、無邪気になり、楽しい気分になれます。息子が発達障害である事も彼女達には伝えています。でも、特に差別される事も、逆に過剰に気遣われる事もなく、普通に接してくれるのがとてもありがたいです。

 先日、一人が近況報告のラインを書いたのをきっかけに、またあれこれ会話が続いたのですが、ある友達が「このラインが心の支えだ」と書きこんでいて、ああそうなのか、と少し驚きました。

 その友達は、ご主人はいわゆる士業の方で、本人は若い頃からずっと働いています。お子さんはいません。生活にも時間にも心にもゆとりがあると思っていました。実際、近況報告のたびに、興味の赴くままに広くあちこち行っていて、元気だなあと思っていました。

 その彼女が「昨晩も夫と一言も話さなかった」と言い、子供もいないし、自分の仕事なんて誰にでも出来る事だしと、孤独や不安を感じているようでした。学生時代からの友達との繋がりだけが、唯一彼女を支えているのだと、彼女は言っていました。

 

 私は、友達たちとの繋がりを、そこまで重要視していない事に気づきました。もし、友達がいなくなっても、多分、私にはそこまでのダメージは受けないと思います。いてくれる事は有難く、沢山の力をもらっているのは間違いないのですが、だからといって、いなくなってしまっても、私は変わらないと思います。

 私は多分、全ての事に、実は心の底から絶望しているんだろうなと思います。絶望というか、期待は無いというか。私の人生を、私は生きていないのだ、という感覚。まるで他人事のように、自分の人生を遠くから見ている感じ。

 だから何に対しても強い執着がなく、思い入れもなく、駄目なら駄目で構わないという感覚を、ずっと持っているように思います。

 原因は、息子が障害児だった事だと思いますが、下地はやはり親かもしれません。父親は良い人でしたが仕事が多忙で家におらず、母親は色々書いてきたように、子供より自分を大事にする人でした。本当に必要な時に、本当に必要な助けを、母親からもらえた記憶がありません。幼い頃からずっとです。とはいえ、私の親世代というのは、そういう子育てが主流でしたから、私の母親だけが特別だったわけでもないと思います。

 親から必要な助けをもらえないで育つと、子供は窮地に陥り苦しみますので、そこから抜け出す手段として、自分の人生を他人事のように捉える習慣を身に着けるのかなと思います。私にはそういう下地があった上に、息子の子育てが苛酷だったので、自分の人生を遠くから眺める事で、苦しみから逃れ続けてきたのだと思います。

 それで無事に生きてこれたのだから良いのですが、友達のラインを読んで、思ったのです。私はこんなに自分の気持ちを自分のものとして捉えていないなあ、と。

 友達が大事だと思っている私は、どこか遠くにいて、今の私はそれをぼんやり眺めている感じ。ラインをくれた彼女のように、「みんなの存在が心の支え」と書き込むような事を、私は絶対にしないだろうと思いました。そこまでの思いの強さが、私にはない。

 

 友達はみんな大好きだし、一人ひとりの個性を私は心から好ましく思っていて、長い付き合いだからこそ湧く特別な愛着があります。誰かが困っていたら、全力で助けたいと思う。でも、そこまで、なんですよね。

 友達の存在がゼロになっても、多分私は困らない。辛く感じない。苦しまない。

 この事に気が付いて、改めて、ああ私ってこういう人間だったなと気づきました。

 ではまた。