書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「仮想儀礼」篠田節子著

 今日は、篠田節子さんの「仮想儀礼」について書きます。 

 私が篠田節子さんを好きな理由は、徹底的に取材して書くその職人気質や、人間の弱さ汚さを当たり前のものとして書ききるところ、冷めて突き放した視線、等など沢山あるのですが、何よりも凄いと毎回思うのが、彼女の「先見の明」です。

 この本は、2008年に出版されましたが、なんとテーマは「自己啓発の教祖」です。時代の先取り力に驚くばかりです。

 

ここから先はネタバレかなりありますので、ご注意下さい。

 

 この小説は、宗教と自己啓発の中間に位置する団体を設立する事で生活していこうと決めた、男の話です。
 元は官僚だった彼が、副職でゲーム作家を目指し、そちらのほうが楽しくなって、官僚を辞めたのと同時に、出版社が倒産。一気に食い詰めた彼は、たまたま書いていたゲームのストーリーが、架空のチベット密教系宗教国家の話だった事から、これをモチーフにした、自己啓発とも宗教ともつかない団体を起こす事にしました。信者からの献金で生活できないかと考えたわけです。
 まずは、ネットにホームページを立ち上げ、寄せられる投稿に返事を書く事でネット信者を獲得し、次に、自分のマンションを当面の本部にして、信者を集めていく、というのが、出だし。
 そこから、彼がどうやって信者を増やし、どうやって稼ぎ、どうやって成り上がり、どうやって、堕ちていくか、を、この小説は、描ききっています。
 前半は、「発展時代」を書いています。ゼロから団体を起こし、東京と関西に大きな拠点を開き、信者数7000人越え、ビデオや著作が売れまくり、雑誌テレビにも出る、年収も1億越え、ベンツで送り迎えされ、周囲から「先生」と敬われる存在に成りあがった彼。
 後半は、「没落時代」を書いています。築き上げたその城が、一気に崩れ落ち、あっという間に信者数数人に激減、収入はゼロに、拠点は全て没収され、住まいも無くなり、周囲から「犯罪者」と言われるようになり、「犯罪者」として雑誌テレビに報道される彼。
 そしてしかし、そこは篠田節子。ただの没落では終わらせません。
 弱っている人の心を利用して商売しようとした彼には、更なる、背筋も凍るような運命を用意していました。
 彼を信じ、信者となり、没落後も残ってくれた数名の女達。この女達が、最後まで、教祖としての彼の生活を支えてくれたわけです。弱っていた私達の心を、救ってくれたのは、教祖様だから、と。
 でも、その教祖様である彼は、別に人を救えるような、真の信仰もなければ、高い志もなかった。
 ただ、金儲けがしたかったから、たまたま手元に、以前書いたゲームのストーリーがあったから、それを使って、心が弱った人を集め、相談にのり、自説を説き、見返りにいくばくかの金銭を得て、それで生計をたてていただけだった。最後まで彼を支えてくれた女達の、その弱った心は、救われていたわけではなかったんですね。似非カリスマ教祖の彼に、人の心を救う力なんて、なかったんです。彼女達の心は、救われはしなかった。彼女達は、病んだ心のままで、彼の元にい続けた。そして、それを彼には救う力はなかったから、彼女達の心の病は、水面下で進行していたんですね。
 でも、何の専門知識もなく、修行もしていない、似非教祖の彼には、彼女達の心が、水面下で、どんどん病んでいく事に、気づけなかった。
 彼女達は、表面的には、普通に仕事をし、冷静に振る舞い、幸せそうにしていたからです。
 彼は、彼女達を救ったつもりでいた。
 救えていない、という事に、気づかず、無防備に、彼女達に「先生」と敬われ、支えてもらい続けていた。そういう日々の中で、彼女達の心は、末期的状況まで、どんどん病み進んでいっていた。
 ある瞬間から、それは一つの事件ではなく、様々な事件が重なった瞬間なのですが、彼女達の心は、どん詰まりまで病みつくし、壊れました。
 彼女達は、彼を「先生」と祭り上げながら、「先生」を、自分達なりの「教祖」に、作り変えていくのです。狂った彼女達に、常識も、猶予も、良心も、ためらいもなく、他人の痛みを感じ取る力すらもうありません。ここから、背筋の凍るような運命が、彼には待ち受けているのです。
最後は本当に、怖いです。
 でも、怖さの中に、自業自得、という思いもあるのですね。
 だから、読後感は、意外にも、爽やかです。

 彼を取り巻く人間たちの多彩さは、この小説のもう一つの魅力だと思います。
 読者は、登場人物のいずれかには、必ず自己投影できるはずです。
 また、彼自身は決して悪人ではなく、むしろ普通の一般的な人物として描かれているので、
こういう「怖い状況」に、誰しもが陥る可能性がある、という事を、読者に示唆しているように思います。
 何故なら、彼は、決して、金儲け主義の悪人では、ないからです。
 彼の元で心を回復させていく(ように見える)信者の姿を見て、仕事にやりがいを感じたし、正義感も芽生えたし、人助けの喜びも感じていたのです。信者たちを救ってあげたいという思いも、十二分にあったのです。
 彼が悪人だから、こういう悲惨な結果に成り果てた、というのなら別に怖くはない。でも、彼は普通の、真っ当な、当たり前の、常識のある、むしろまともな、男でした。だから怖いのです。

 さて。
 この本を出版した2008年にしてすでに、著者はこの現代の自己啓発ブームの行く先を、キッチリ書ききっておられます。すごいですね。

 世の中に不安が蔓延し、経済状態が悪化すればするほど、自己啓発や占い・スピ系が大流行する。文中にも出て来るのですが、2008年の段階で、日本における宗教団体の数は、法人登録されているものだけで、18万5千、あるそうです。教祖の数は、140万人。信者の数は、トータルすると、日本の人口の50倍を超えるそうです。水ぶくれした組織は淘汰されていくのですが、統計上は抹消されないので、こういう事になるそうです。それにしても、凄い数ですね。
法人登録されていない団体となると、もう、天文学的数字になるのでしょう。

 人の心の闇を、大した覚悟もなく、お手軽にいじった結果がどうなるのか、この本は、それを見事に書ききっています。

 心の病と、商売は、決して一緒にしてはいけない。心の病を救う事で、金銭を得るという事は、誰がやっても、どういうやり方をしても、最終的には、破綻する。
 何故ならば、心に、理屈は通用しないから、です。心は、「感情」です。お金は、「感情」が大きく動くと、支払う事に躊躇が無くなります。感情が大きく動けば動くほど、人は、太っ腹になるのです。だから、宗教やスピや自己啓発に、人は多額の金銭を、喜います。だから、宗教やスピや自己啓発は、当たる時には、大した努力も何もせずとも、降るようにお金が入って来る。宗教やスピや自己啓発は、心を扱っているからです。
 でも、「心」には、理屈は通用しません。このクライアントさんは、もう救えない、辞めて欲しい、自分から離れてほしいと思っても、辞めてくれません。離れてくれません。
 「自分を治すのは自分自身だ。私に頼られても治らない」
 「お金は全額返すから、辞めてくれ」
 「私はあなたの家族でも何でもない。私から離れてくれ」
 と、理屈をどれだけ並べても、「心」には、理屈は通用しません。クライアントが、「離れたくないです。どこまでも教祖様について行きます」と思う限り、付きまとわれるのです。
 何故なのだ、そんなのおかしいだろう、離れてくれるべきだろう、と理屈を言ったところで、相手には通用しません。
 知らん、知らん、と逃げても、そんな理屈は、「心を病んだ」相手には、一切通じないのです。それどころか、離れようとすればするほど、執拗にまとわりつかれるのです。そんな相手が一人でも大変なのに、何人もいれば、、、、、。

 心に理屈は無いので、心を扱うと、うまくいけば、一切頑張らなくても、勝手にお金が入って来ます。と同時に、心に理屈は無いので、一端まずくなったら、死ぬ程頑張っても、絶対に逃げられないのです。そして、逃げたくなってから、世間の良識に頼ろうとしても、遅いのです。
 良識を否定し、世間を見下し、我こそは世の摂理なり、でやってきた宗教やスピや自己啓発の教祖に対し、世間も、信者家族も、当然、眉唾者を見る目で見る。そして、信者が起こす事件の全てが、教祖にそそのかされた、とされる。そそのかしてなどいない、と言ってみても、通じないのです。全てはあなたが教えた事でしょう、あなたの教えでしょう、と言われるのです。
 教祖が一転、犯罪者に成り果てる図式です。
 人の心を扱う仕事を商売にする時は、ここまでの覚悟をして、自分の命も人生も、家族の命も幸せも、全て捨てる覚悟が必要なのだと思いますね。逆に言えば、人の心を扱う事を、「商売」にしては、いけないのです。心を病んだ人の、その「心」を利用すれば、簡単にお金を吐き出させることができますが、心を病んだ人には、商売取引における理屈もルールも、何一つ通用しないのです。病んだ感情が高ぶった時、人というのは、どういう蛮行を行えるのか、それは、この小説の後半を読めば、知る事ができるでしょう。殺人すら簡単に行えるのです。ただ殺すのではなく、辱め、痛めつけ、なぶり殺す。そして、殺しておいて、殺した意識どころか、相手の中の悪魔を退治してあげた、相手を悪魔から救ってあげた、と悦に入る。
 弱った心につけこんで、お金を吐き出させる事が「人助け」なら、まともな人に悪魔の幻を見て、なぶり殺す事も「人助け」になるのです。

 やはり。
 心の病は、医療機関で治すしかない、のだと思います。医療機関とて、商売色が無いとは言えませんが、それでも。そういう意味では、暖かい家庭があれば、そこでただ時を過ごしつつ治していくのが一番いいのでしょうが、今の時代、家庭こそが病の元凶である場合が、多いですから、難しいですよね。心の病を治すには、決して近道はないし、意外な解決方法も無い。
当たり前のことですが、それを思い知らされた小説でした。読み応え十分です。