書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

共感するという重荷

 これは、発達障害の気がある人独特なのか、一般的にみんなが持つ傾向なのか分かりませんが、「他人に共感して欲しい」要望が、あるようです。

 あるようです、と書いたのは、私にはあまりその要望がないからです。

 

 ある発達障害児育児をされているお母さんが、友人に「子供が、外では大人しいが、家では暴れて攻撃的で大変なんだ」とこぼしたら、その友人に「子供って、そういうものよ。大人だって外では気を使っていて、家ではのびのびしてるでしょ」と言われたそうで。とても嫌だったと、書いておられました。

 そのお母さんは、友人に「そうなんだ」と共感して欲しかったそうです。友人は定型児育児をしているので、発達障害に理解を示す事までは要求しないけれど、ただ「分かるわ」と受け止めて欲しかったのだそうです。

 

 分からないでもないですが、、、。

 理解できない事を、理解したかのように受け止めるという事をして、「共感する」とするならば、共感するという事は、けっこうしんどい作業になります。

 私も、息子の言う事に違和感を感じる事が多いですが、感じた違和感を息子に言うことはできません。気分を害されてしまうからです。だから、私は、違和感を感じても、「へ~そうなんだ」「そういう事もあるよね」「分かる分かる」と、頑張ってむりやり共感を示します。これ、結構大変です。しんどいですよ。

 結局のところ、自分に嘘をついている事になるからです。

 共感してもいないのに、共感している風に言うわけですから。

 

 共感を求めて愚痴を言う側の人は、「ただ共感して欲しかっただけ」と、いとも簡単な事のように仰るけれど。本当に共感したなら、共感を示すのはたやすいことですが、違和感があるのに共感を示すのは、努力しないと出来ません。

 結局、共感を求める人というのは、自然に共感してくれそうな人を選んで愚痴を言うべきだろうなと思います。

 発達障害児育児の愚痴は、発達障害児親に言うべきで、定型児育児親に言っておいて、共感してくれ、はちょっと求めすぎだろうなと思いました。

 

 私自身は、あまり人に共感を求めにいかないタイプで、共感してもらって何がどうなるの?と思うほうです。特に愚痴に関して、共感しあったところで、建設的なものは生まれないと思ってしまいます。愚痴に対する共感の言い合いは、傷のなめ合いに近い気がします。ごくたまに、ならいいけれど、やり過ぎるとエスカレートして、他責の世界にどっぷり沈み込む、みたいな事になる気がします。

 

 共感を得たいなら、愚痴を言う相手を選ぶという事。共感を示すという行為は、意外と重労働だという事。「ただ共感して欲しかっただけ」と、軽々しく求めるのは、ちょっと違うんじゃないかと思いました。

 

 ちなみに。家の中だけ攻撃的になる、というのは、ある種の発達障害児特有の傾向で、これは、自他の区別が出来ていない(母親を自分のものだと認識している)せいで、放っておくとエスカレートするだけなので、早急に対処すべきだと思います。

 対処方法は、子供の年齢によって違いますが、小学生低学年であれば、母親と子供を物理的に離す(その間の育児は、他人か父親に任せる。期間は長ければ長いほど効果が出やすい)ことで、子供が母親を自分の一部だと誤認識する事を直せるようです。