書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「発達障害者の困り感がない社会」という無理難題

 今日はまた、悲観的極まる記事になりますので、こういうのが苦手な方は、スルー下さい。

 ネットでよく拝見する意見に、こういうのがあります。「発達障害者の困り感がなくなる社会になるといいな」。

 いや、それは現実問題、絶対に無理でしょう、と私は思います。

 

 発達障害者の生きづらさをなくす為には、その発達障害者の特性に応じた支援や配慮をする必要があり、その支援や配慮というのは、とてつもなく大変なことです。一般社会で言うところの、「我儘としか思えない要求に喜んでこたえる」「間違っていても絶対に否定できないし、どんな時も変わらずにこやかに対応する」「どう考えても理解できない滅茶苦茶な事に、疑問を呈する事はできない」「常にどんな時も怒らず許す」「どう考えても無駄な事に、こちらの膨大な時間とお金と苦労を捧げる」事です。

 そうしてもらって初めて、発達障害者は困り感なく生きていけます。でも、そうしてあげる社会側の人間の負担は、とてつもなく大きいし、その負担に見合う金銭的メリットは誰が出すのか?という話になります。税金から出すのであれば、とても負担に見合う額にはなり得ません。

 これは、日本だから無理、という話ではなく、世界中どこの国に行っても、発達障害者の困り感をなくせる社会というのは、存在しえないと思います。

 

 いや、無理とか言わずにやれよ、と思う方がおられたら、「社会」の部分を、「家庭」に置き換えてみて欲しいです。

 「発達障害者の困り感がない家庭」。それを実現する為の負担は、100%親(特に母親)に来ます。出来ますか? 金銭的に負担に見合うメリットはない中で、ただひたすら障害特性に合わせた接し方・支援・配慮・フォローをし続けるという事。どんなに我儘に思える事に対しても怒る事は許されず、どんなに無理な要求に対しても笑顔でこたえなければいけません。こちらの要望は通りません。忍耐・忍耐・忍耐です。言葉1つ、表情1つでも間違えられません。昨日と違う今日は許されません。何から何まで毎日判で押したように同じにせねばならず、音に敏感な特性なら音を出さない、匂いに敏感なら匂い、敏感特性に合わせてこちらの生活がとてつもなく縛られます。

 これを一生続けないといけません。出来ますか?出来ませんよね。

 

 でも、対象を「社会」という風に広げると、あたかも魔法のように、これが可能だと思う方々がおられる事が、私には不思議でなりません。

 私は、無理だと思います。

 発達障害者の困り感がなくなる、という事は、それ以外の人達が見返りなく多大な苦労を強いられるという事になるからです。自分がそれを出来るかどうか、考えてみたら、答えはおのずと出るはず。出来ないと。

 

 なぜ、発達障害が生まれるのか、私には分かりませんが、現実に高い確率で生まれている以上、唯一の解決は、子供を産まない、しかないとペシミスティックな私は思います。

 私自身、息子を産んでしまった事を、息子に対して申し訳ないと思っています。生まれなければ「無・ゼロ」ですが、生まれた事により苦痛しかない生涯を与えてしまった事が申し訳ない。だから、私に出来る限り息子を支えて生きています。この苦労を他の女性にさせたくないので、私は終始、「女性は子供を産まないほうがいい」と書き続けています。発達障害に関する限り、それが唯一の解決方法だと思っています。