書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

負け惜しみと魂とエゴ(追記有り)

 今日書く事は、全部、私の個人的な意見で、誰かに押し付けようとか、そういうつもりはないので、そこだけご了承下さい。

 

 「負け惜しみ」から生じる諸々というのは、全く意味がないなあという事に、最近気が付きました。気が付くのが遅いんですが、、。

 「意地っ張り」とかはまだね、そこから反骨精神とか、何がしかのパワーが生まれたりするのでマシなのですが、「負け惜しみ」だけはいけません。

 「負け惜しみ」は、気に入らない人や自分と異なる考え方を否定して、捨て台詞を吐くような事なんですが、そうする事によって、一瞬だけ気持ちがスッキリするにしても、そのスッキリ感はすぐに消え去るし、消えた後、自分が向上していけるかと言えば、むしろ下方していきます。向上するパワーが、負け惜しみには無いからです。

 こういう事を、最近気づいた、という、、、。まあ、遅いですが、気づかないよりはマシだと思っておこう。私、口には出さないまでも、心の中で、けっこう負け惜しみをやっていたので、これからは止めようと思いました。自分の為に。

 負け惜しみを止めたら、人生には良い効果が、やめた分だけ現れる気がします。

 

 あと、これも最近、ふと思ったのですが、魂とエゴは、違いますよね、というお話です。

 人と話していて、「え?」と話しについていけなくなる事が、今までにもよくあったのですが、ある時、気づいたのです。この人は、魂とエゴを混同しておられるんだな、という事に。

 エゴというのは、自我のことで、つまり、自分で意識している自分の事です。「私が」「僕が」と言う時に、自分が意識している「私」であり「僕」です。生まれたての赤ちゃんの意識は、母親と同化していますが、育っていくうちに、母親と分化した「自分」を認識していきます。俗に「自我が芽生える」というやつです。この「自我」が、イコール「エゴ」です。肉体がこの世に生まれた時に生じるものです。

 一方、「魂」というのは、意識する事は出来ません。血管を血が流れるのを意識できないように。有るけれども、知覚はできない。何故かと言うと、知覚というのは、神経細胞の働きで得られるもので、魂というのは、肉体の神経細胞では感知できないものだからです。

 それでも、無理やり感知しようとするなら、例えば、夕暮れの空を見て、ふと涙ぐむ時、それは魂です。そこにあるのは、ただ暮れていく空だけで、そこに涙を流させる要素はありません。空が私に何かを言ってくるわけではないし、何かをしてくれるわけでもない。空が暮れたからといって、何かが起こるわけでもありません。人が死ぬわけじゃない。つらい事が起こるわけじゃない。泣く要素はゼロなのです。なのに、涙が出る。それは、無理やり言葉にするなら、暮れていく空に儚さ愛おしさを感じるから、という事になるのですが、そこにあるのはただの空なのです。日が沈むだけなんです。毎日毎日起こっている事です。今日だけ特別なわけではない。なのに、なぜ「儚い」と感じるのか。「愛おしい」と感じるのか。それは、自我ではなく、魂が感じているからです。

 つまり、夕日を見てふと涙が出る時は、ここに魂があるんだな、と思えばいいわけです。わけもなく悲しい、わけもなく嬉しい、そういう時、よくよく考えてみても本当に1ミリも合理的な「わけ」が存在しないなら、自我ではなく、魂のなせる現象なのだと思えばよいと思います。なぜ魂が、そういうものに反応するのかは、私には分かりませんが。桜井さんは、「魂がもといた世界を思い出させるから」という風に説明しておられました。つまり、夕暮れの景色は、魂がもといた世界と何かしら通じるものがある為、魂はふと、もといた世界を思い出して、懐かしい思いをしているのだ、と。涙が出るのは、懐かしさ故だと。本当かどうか、私には確かめる方法がありませんが。

 

 さて、で。

 「自分の本当にしたい事をしましょう」とか、「自分を満たしてあげましょう」という言葉を、最近、わりとよく聞きます。

 この時の話者の想定されている自分というのは、自我のことだと思われます。

 何故なら、前述したように、魂を感知する事はとても難しいからです。感知する事すら難しいのに、その魂が望む事を把握する事なんて、並の人間には不可能です。私達が「私」と意識している自分とは、つまり「自我」です。「エゴ」です。

 つまり「自分が望む事をしましょう」は、「自我が望む事をしましょう」「エゴを満たしましょう」という事になります。

 自我が望む事、自我を満たす事、それらは突き詰めれば「我欲を満たす」事になります。欲望というのは限りがないもので、望むものが手に入っても、嬉しいのは一瞬で、次の瞬間にはそれが普通になってしまって、次の欲望が生まれてしまいます。自我を満たす事を追求していくという事は、終わりがない飢餓の世界に入っていく、という事です。

 「自分が本当に望む事をする」のが正解なのは、その「自分」が、イコール「魂」である時だけなのですが、魂の望む事を把握するのは、凡人には無理です。

 なので、私は、人とお話ししていて「自分が本当に望む事をしたほうがいいよ」とか言われると、「え?」っと思ってしまうわけです。いやいや、無理やから、と。

 私はせいぜい、「なんか、こっちのほうがいいような気がする」程度で、自分の行く先を決めています。そして、それでわりと失敗していないので、まあこれでいいんじゃないかと思っています。

 

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(追記)

 途中まで書いて、雨が止んだので、お買い物に行ってました。帰って来たので、続きを書きます。

 上には、自我を悪者のように書いてしまいましたが、自我を満たす事は悪い事ではありません。人間は、自我の要求する欲を満たし続けないと、生きていられません。欲を満たせないと、人は簡単に病み、死んでしまいます。

 睡眠欲、食欲、性欲等の基本欲求だけでなく、承認欲求や権力欲、自己顕示欲や金銭欲など、私達は沢山の欲望を持っていて、誰に言われるまでもなく、それらを満たし続けて生きています。基本欲求は当然ですが、それ以外の欲も、あまりにも欠けてしまうと、私達は病んでしまいます。例えば、承認欲求を一切満たせずに生き続けると、一部の人は、心が壊れてしまうでしょう。

 だから、「自我の要求する欲を満たす事」は悪い事ではありませんが、「自分の本当に望む事をやろう」みたいに大上段に立って、気負う事ではない、と私は思うわけです。そんな風に改めて構えなくても、私達は、自分の望みを、すでに満たし続けて生きているからです。そうじゃないと、私達は、とっくに病んで死んでいます。