書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「怖い人」は「強い人」か?

 ふと思った事があるので、手短に書いてみたいと思います。

 私は、性格的な問題だと思うのですが、「感情的になる人」が苦手です。特に、怒りの感情を他人にぶつけて平気な人が、よく分かりません。大声で怒鳴ったり、相手が言われたくない言葉、相手を傷つける言葉を、あえて相手にぶつける人。

 私は、そういう人が苦手だしよく分からないのだけれど、なんとなく、まあ「精神的に育ち切っていない、子供みたいな人なんだろうな」と思うようにしています。忍耐力や、相手の立場になって考える力や、自分があえて負けてあげるという度量の広さは、成長とともに育つものなのですが、これが育っていない人なのだろうと。

 ところが、ある方が、こんな発言をされていたので、驚いたのですね。それはこういうもの。

 「あの人を怒らすと、本当に怖いよ。あの人が怒った時には、信じられないくらいキレまくる。あの人って、怖い人だから強い人だよ。どんなに厳しい状況になっても、落ち込んだりしない、芯が強い人だよ」つまり、怖い人=強い人、という論理なのです。〇クザって強い人、という認識なのです。

 

 私はですね、暴言を吐いてキレまくる人というのは、上にも書いたように、「精神的に幼い人」だという認識でいました。だから、「怒ると手が付けられない人=怖い人=強い人」という見方には、違和感を感じました。

 自分の怒りを制御できない人というのは、むしろ「弱い人」なんじゃないかな。私は〇クザになる人というのは、弱い人だと思っているので。

 

 何を持って「人として強い」とするか。ですが、私は、自分を律する力を持つ事が、強いと思っています。勿論、他にも「人としての強さ」をはかる基準は色々ありますが、一番にくるのは「自分を律する力」だと思います。

 なぜかといえば、人間の一番弱い部分が「エゴ」だからです。「エゴ」もしくは「我」。「我」を持って人は生まれて、「我」を制する事を学ぶのが生まれて来た目的だと私は思っています。「我を制することを学ぶ為に」人は生まれ生きるのだと思っています。

 だから、「我を制すること」つまり「自分を律する力」を持つ事が、究極の強さだと私は思うわけです。

 

 一方で、「怒ると手がつけられないぐらいキレて怖い人」というのは、我を制するどころか、自分で自分の我をコントロールできない幼い精神の持ち主だと思われます。幼い弱い精神だから、キレる自分を抑えられないのです。だから、怖いから強い、のではなく、「人を怖がらせる事で優位に立たずにはいられない程、弱い人」なのだと思います。

 本当に強い人は、人を怖がらせて優位に立つ必要はないからです。本当に強い人は、自分が強い事を知っているので、それを外に向かってアピールする必要性がないのです。単純に言えば、弱い犬ほどよく吠える、というやつなのですが。

 

 でも、怖い人=強い人、という風に考えている人は、人生をどういう風に考えているのかな。生きるって、どういう事だと考えているのかな。多分、「幸せ感」を感じる事が、生きるという事、生きる目的だと考えているのじゃないかなと思います。

 でも、幸せ感というのは、長く続くものではないので。刹那的に、その一瞬、そのひと時、感じる事は出来ても、次の瞬間にはもうそれは「普通のこと」になってしまう。人は幸せに慣れてしまうともう、それを幸せとは感じられなくなるものです。そして、もっと強い幸せ状態を、次へ次へと求めてしまう。

 であれば、多分「幸せを感じる事」を生きる目的とするのは、実はほとんどの時間を「幸せが足りない」と感じて生きることになってしまいます。

 なので、私が思う「生きる目的」とは、「自分の我を自分で制する力をつける事」だと思うわけです。これは時間がかかりますが、積み重ねていく事ができます。つけた力は消えてしまいません。積み重ねていく事ができる。そういうものを、生きる目的としたほうが、まあ、合理的だなと私は思うわけです。

 途中から話がズレました。すみません。

 ではでは、今日はこのへんで。

 

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