書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

お稽古通いとセミナージプシー

 前回の記事で、母をディスるような事を書いてしまったのですが。

 私は一方で、母が高尚な芸術系のお稽古に没頭して、子育ては二の次だった事を、さして否定はしていないのです。

 あれは、あれで良かったのだろうと思う。母は、ああいう生き方しか出来ない人だったのだろうし。私自身が、放任されて育ってものすごく不幸だった、というわけでもないので。確かにしんどい事は多々あったけれど、親切な母親で、親身になって相談にのってくれ、良心的に私と接してくれたとしても、私の人生は、さほど変わらなかったかもしれない。。。いや、大きく変わったかな。ちょっと分からない。

 特に、勉強のことや職業について、一切相談にのってくれなかった事、放任されていた事は、少しだけ残念かもしれません。実社会について、学生の頃の私に、もう少しだけ知識があれば、今のこの人生を選んでいなかったと思うので。

 それでも、母は姉ほど酷い親というわけではなかったので、芸術的お稽古が、母の心の平安を支えたのは間違いないと思います。母は、芸術的なお稽古を沢山やる事で、日常の不満や不安を昇華する事ができたので、子供に当たり散らす事はなかったからです。

 一方、姉は。

 似非スピリチュアルや自己啓発にのめりこみ、いつかカウンセラーやセミナー講師で大成功してみせると息巻いているのですが、勿論、実現はしていないし、将来も実現はしません(断言します)。

 同じ師匠についてずっとやっているならまだしも、姉の場合、一つのグループ(宗派?師匠?)の生徒になりお金と時間を注ぎこみ、弟子の一人にまで昇進?し、さあ自分も稼ぐ側になろうというタイミングで、いつもそこを止めてしまう。稼ぐ側になると、今まで甘い事だけ言ってくれていた師匠が、急に厳しくなるからです。姉は、師匠に嫌な事を言われた途端に、「ここは駄目。合わない」と止めてしまう。そして、別の宗派を探して、そこに通うようになるわけです。お金を払っている立場でいる限り、甘い事を言ってくれるから、セミナージプシーをやめられないのです。

 母のようにお稽古に通う事と、姉のようなセミナージプシーとを比べると、お稽古には罪がないと感じます。他人に迷惑をかけないのです。

 自己啓発や似非スピは、「自分を一番にかわいがろう。言いたい事を言い、やりたい事をやろう。やりたくない事はやらなくていい」的な自己中心性を推奨するので、周囲の人に迷惑をかけることになります。

 姉の家族も、姉のせいで、みんな苦労し壊れていっています。

 母は確かに放任な母親ではありましたが、お稽古に没頭する事で承認欲求を昇華できていたので、家族に迷惑はかけませんでした。そういう意味では、主婦がお稽古に没頭してくれるほうが、セミナージプシーになるよりは、家族にとって有難いと言えます。

 一昔前に比べると、主婦のお稽古熱は下がり、起業欲に取って代わられたように思います。お稽古では一銭も稼げないからアホらしい。お稽古するなんて、暇持て余してる主婦な証拠。そんな風に、お稽古をさげすむ風潮もあります。

 でも、主婦が、起業する事で家族に迷惑かけるぐらいなら、大人しくお稽古に熱中しているほうが、ずっとマシじゃないかと私は思います。暇な主婦のお遊びと揶揄されても、いいと思う。言葉はきついけれど、主婦業をせずにはした金稼ぐより、主婦としてやるべき事をやって無収入なほうが、ずっと真っ当じゃないかと私は思います。少なくとも私には、そのほうが、自分自身の心が平安だと思います。まあ、これは一昔前の専業主婦の考え方なのでしょう。

 

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