書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

ブログに嘘を書くという事。

 ブログに限らずインスタでも何でも、SNSで発信しているものに、嘘偽りを書く事について今日は考えてみます。

 匿名、実名関わらず、SNS上にあえて嘘を書く人が一定数いることは確かです。何故彼等は嘘を書くのか。

 嘘を書いてはいけない、という明確なルールがあるわけではないし、匿名の場合見バレを防ぐ為に多少のフェイクを入れる事は、嘘偽りとまでは言えません。また。実名の人の場合でも、実名だからこそ関係者への配慮から嘘を混ぜるという事は必要であろうと思われます。

 ですが、そういう事情で嘘を混ぜ込むというケースではなく、そもそも最初から根本部分から嘘で作り上げた発信をする、という人が、一定数いるという事実。彼等は何故嘘を発信するのか。

 「嘘」には二種類あって、あえて不幸や不運、愚かな自分を描き出し、アクセス数を稼ぐ「釣り」と呼ばれるタイプが、まずあります。人の不幸を読みたい、とか、愚かさを批判したい、という読者は結構多いですから。そういう読者を惹きつける為に、虚構の不幸を書いてアクセス数を稼ぐ。これは、アクセス数稼ぎ以外にも、隠れた真の目的があって、それは「自分の嘘に読者が食いつくのが楽しい、真に受ける人がいる事が面白い」というようなこと、つまり愉快犯的な面があると思われます。

 一方、逆に、幸せや幸運、優秀な自分を描き出すタイプがあります。自己啓発やスピの世界で特に多く「幸せな私の真似をすればアナタも幸せになれるから、私の話を聞いて真似して」と勧誘するのが目的です。が、こちらも「ファンを獲得する」という目的以外に、「虚構の優越感や承認欲求を満足させたい」という隠れた目的があり、むしろこちらのほうが大きいのではないかと思います。実生活では言えない、でも言いたかった台詞「私は素晴らしい。みんなに愛されている。何でもできる。幸せ過ぎる」を、存分に言い、またそれを真に受けた読者から尊敬され憧れられたいという。ファン獲得よりも、むしろ「なりたかった素晴らしい自分演出」のほうが、真の目的であったりする。

 まとめると。

 前者は「アクセス数稼ぎ」が表上の目的で実は「人を騙して面白がる」という隠れた目的がある。一方、後者は「ファン獲得」が表上の目的で実は「素晴らしい自分に酔いたい」という隠れた目的があると思われます。

 そう考えた時、より罪深い嘘は、後者であろうと思われます。前者であれば、読者はただ読むだけで終れるところを、後者は、読んだ後にファンになってしまう危険があるからです。発信者が自己啓発やスピを謳っていれば、ただのファンではなく信者になってしまう危険があります。

 

 SNSで嘘を書いてもいいじゃないか、小説だと割り切って読めばいいじゃないか、そういう意見もあろうとは思います。でも、小説は、最初から作りものだと分かっていて読むわけです。そこが、嘘か誠か分からないままに読むSNSとは、根本的に違います。出版の世界において、フィクションかノンフィクションかの仕訳はとても重要で、どちらか曖昧にしておく事は許されません。どちらなのかはっきりと明確に宣言しなければなりません。

 しかしSNSでは、そこが曖昧なままで許されている。読むほうは、事実なのか嘘なのか分からないままで読む。そうするとどういう不都合が起こるかというと、読者は、自分が信じたい事を事実だと思い込む危険があるわけです。嘘を、現実に起こっている事実として脳内に刻み込んでしまう。そして「事実として刻み込まれてしまった嘘の蓄積」を基にして、「嘘」を参考にして、「嘘」をお手本にして、自身の人生を構築しようとしてしまう。

 当然、失敗します。

 

 以前も紹介させて頂いたマダムユキさんという方のブログに、胸痛む内容がありました。勝手ながら引用させて頂きます。こちらです↓。

子宮系女子たちの淋しさ : Flat 9 〜マダムユキの部屋

 上の記事に飛んで読んで頂くのが一番分かりやすいと思いますが、一応ざっと概要を書いておきます。

 藤本さき子さんという自己啓発の教祖がおられて、その方のセミナー(300万円)を受けて認定講師となったHさんが、先週お亡くなりになった。Hさんは、心屋さんにも信奉していた模様。彼女は、不登校発達障害児を抱えるシングルマザーさん。自身のブログには、亡くなる直前まで幸せな日々を綴っておられた。そのブログの最新の記事に、Hさんの親族の方が、Hさんの死を報告された。死因は伏せられ、外での事故、とだけ。

 

 というような内容です。

 私は、Hさんがブログに書き綴っておられた「私は今日も幸せ」というメッセージが、嘘であると明確には言えません。言えませんが、普通、死因を伏せる場合、どういう事が推測されるか、と考えると、本当に幸せだったのか、と疑問を感じざるを得ません。Hさんの人生が本当に「毎日幸せで一杯」だったのかどうか。もしHさんが嘘を書いていたのだとしたら、その大元教祖である藤本さんや心屋さんも嘘を書いておられるのでは、と思われます。嘘とまでは言わなくとも、事実を伏せて都合のいい事だけを書いている可能性が高いのでは、と。

 現に、Hさんの死がブログに発表されても、藤本さんは自身のブログで悔やみの言葉一つ書かれなかった。翌日、それは教祖としてあまりに冷たいのではないかとネット上で批判が殺到し、急いでブログに追悼記事を載せた。でも、追悼記事を載せたと同じ日に、ツイッターのほうでは「ヴィトンを買った♡」と浮かれた呟きを書いているという心の無さ。追悼記事に書かれた「悲しくて涙が止まらない」的な文章は、嘘なんじゃないかと思われても仕方ないでしょう。悲しくて涙が止まらない状況で、ヴィトンを買ってはしゃげるわけがないですから。どっちかが嘘です。

 

 Hさんという方が、発達障害児を育てておられた、という事に、同じ発達障害児を持つ私は、胸をえぐられる思いがしました。私は、夫がいて生活に困りませんし、息子もなんとか学校には通えていますが、これが、自分で稼がねば生活に困るとか、子供が不登校でとなると、いかに人生が厳しくなるかと察せられます。その厳しさから逃れる為に、自己啓発の甘言が必要だったのだと思う。でも、その甘言は嘘で出来ていたとしたら、甘言に従っても人生は良くならない。

 Hさんはもしかしたら、「ブログに嘘を書く事」で起こる弊害の犠牲者だったのかもしれません。どういう事情があったのかは分かりませんが、私にはご冥福をお祈りする事しかできません。残された障害児のお子様は、一体誰が育てるのか。実の母親でさえ苦心したその子育て、その責任を、一体誰が負っていくのか。考えるだけで胸がふさぐ思いです。

 人がブログに嘘を書く事は、止められません。だとしたら、私達がすべきことは、嘘に騙されないようにすること、甘言の中にある嘘を見抜くこと。これに尽きるのだろうなと思います。 これは、分かっているようで分かっていない。人は信じたい事を信じたいのです。ふっと魔がさす一瞬がある。SNSに関わっている限り、常にそこには嘘が在りうるという事を、意識していなければいけないと、改めて強く思います。

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