書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

PTAについて思うこと

 季節外れかもしれませんが、PTAについて思う事を今日は書きます。

 少し前に、母親が幼い子供を殺して自分も自殺を図ったという、痛ましい事件がありました。その理由が、「PTAに参加するのが苦痛だったから」だと聞いて、驚きました。

 ただ。え?それだけの理由で?と最初は違和感を感じましたが、時間が経つうちにじわじわと、「でも、ありうるかも」と思えてきたのです。

 それほど、PTAは、母親にとって苦痛なものだと私は思うのです。

 私は、息子が幼稚園の時の3年間と、小学校の時に1年間、中学校で2年間、PTAに参加しました。

 幼稚園は、小規模で自由保育を謳っている園にありがちな、保護者全参加のPTAでした。小規模園は、先生の数も少ないので、何かをする時に、どうしても手が足りないのです。例えば、運動会でも、先生方は自分のクラスを出しものに参加させるのに手いっぱいで、それ以外の事は一切できません。待っている間の子供達の世話、出しものの道具出し、園庭への線引き、司会放送、音楽、来賓の接待、等々、全部保護者がやらねばなりません。遠足でもそう。20人のクラスに先生がお二人おられたのですが、お二人でも手は4本。4人の子供としか繋げません。となると、あと16人は、子供同士で手を繋ぎ、先生の後ろからついて歩くしかないわけですが、3歳や4歳の子供(特に男の子)にそれは無理。保護者が一クラスに5人は出て、子供達の引率に参加せねばなりません。クリスマス会もバザーも、夏祭りも、プールも、生活発表会も毎月のお誕生日会も、本当に何もかも、保護者が助けてやっと成り立っている園だったので、PTAは全保護者必ず参加が義務づけられていました。

 と言うと、大変だったのね、と言われがちなのですが、そうではなく、幼稚園の間のPTAは、楽しい思い出しかありません。あ、大変は大変だったです。体力的に。私は息子が幼稚園当時、人生でどん底の地獄の子育てをしていましたので(息子が発達障害だった為)、詳しくは過去記事(子育てカテゴリー)をご参照頂ければと思うのですが、とにかく、子供を幼稚園に預けている間にやる事が山ほどあったのです。が、PTAで駆り出される事が多かったので、私の自由時間は削られ削られ、それがしんどかったです。

 でも、小規模園で先生は少ないし、自由保育なので、子供達には本当に手がかかるし(厳しく叱ったり、規律で統率したりする園は、さほど子供に手がかからない)、保護者が手伝わないわけにはいかない事は、入園前から分かっていた事です。また、何より、「PTAが存在する意味、意義」がハッキリ分かっていたので、参加する甲斐がありました。

 参加する甲斐がある、PTAの仕事に存在価値がある、事が、救いでした。

 というのも、その後の、小学校、中学校のPTAは、「え?私、ここにいる必要ある?」と思ってしまう「やりがいの無さ」で、それが苦痛だったからです。

 小学校や中学校では、何をしたのか覚えていないほど、本当に「何で私ここにいるの?」という感じでした。なのに、毎月PTA会合があって、放課後学校に出かけて行って、話し合いの時間を持たねばならなかったし、市のPTA会合にも、回り持ちで参加せねばならかったし(そちらも、意味が分からないままに、ただ座っているだけ)、苦痛のひとことでした。

 小学校や中学校のPTAも、必要なのだろうけれど、これほどの人数はいらないんじゃないかな?と毎回思っていました。少なくとも、私は何もしてません。ただ、会合に参加して座っているだけでした。

 でも、会合に参加するだけ、座っているだけ、と言っても、気は使うのです。周囲に挨拶したり、雑談に入ったり、ほぼ知らないお母さんばかりなので、禁句とか琴線とか知らないので、注意に注意を重ねて会話していて、それがほとほと疲れました。

 だから、PTAに参加するのが苦痛で無理心中したお母さんが、存在しても、おかしくないなと思ったのです。私はどちらかというと、外交的だし、他人のことをあまり気にしないタイプなのですが、それでも、自分の存在意義を感じられないタイプのPTAは、しんどかったです。仕事をする為にここにいるのか、お母さん方と社交を深める為にここにいるのか、今ひとつよく分からず、宙ぶらりんな感じが無駄に疲れました。

 なんと言うんでしょうかねえ。。存在意義の感じられないPTAに、何で私参加しなきゃいけないんだろう?専業主婦だから、どうせ暇だろうから、人数合わせに座っとけって事なんだろうけど、だとしたら、私の人としての価値って、ゼロってこと?

 やる事があるならいいんです、まだ。でも、やる事もないのに、ただ座っている苦痛は、自分の人としての価値を貶められているような、自尊心を削られ続けているような、そんな気分になりました。

 PTAは、ボランティアではなく、アルバイトにして、参加してくれる保護者には、時給を渡せばいいのでは?と、以前から思っています。そうすれば、人数的にももっとシビアに必要な人数におのずから絞れるでしょうし、仕事も要領よくテキパキと進むでしょう。無駄な会合に時給を払う事はないと思われます。

 毎年、PTAのなり手に困りくじ引きで決めたりするわけですが、時給をもらえるとなればパート気分でやってもいい、という方が、クラスに数名は出てくるのではないでしょうか。もともとボランティアでもやっていいよ、という奇特な方も少ないながらおられるぐらいですから。

 そうなれば、文字通り「死ぬほど苦痛」だと感じる人が、無理やり参加させられるような不幸は、免れるのではないでしょうか。

 心よくPTAをやって来られた方、今やられている方には、大変失礼な内容を書いてしまいましたが、人が一人死んでいる(それもいたいけな幼児)という事を考えたら、PTAも変えていかねばならないのではないかと思います。言葉は悪いですが、もっと人が死ななければ変わらない、社会的に世論が高まらない、というのは、あまりにお粗末ではないでしょうか。

 私の知り合いで、出産直後から「ああ、子供のPTAが憂鬱だ」とずーっと思い続けている人がいます。気持ち分かります。PTAが嫌だから子供を産まない、という人も、何人か知っています。産まない理由はそれだけじゃないけれど、要素としてかなり大きいと言っていました。

    PTAが嫌だと言うと、人間的に未熟だとか、自己中だと言われがち。参加してみたら楽しいよ、勉強にもなるよ、と言われるけど、参加したけど、そうでもなかった。参加している人が、していない人より人間的に優れているとも感じなかった。一番怖いのは、知らないお母さん達との交流に不手際があると、その後避けられたりしてしんどくなる危険がある事。悪口言われたりね。仕事なら諦めもつくけど、ボランティアで、しかも押し付けられたボランティアで、ここまで疲れるのは割にあわない。でも、そういう事を学校に対して、言っていく事もできないのです。子供がお世話になっているのだから。保護者側には、子供がお世話になっているという弱みがあるので、学校側に前例を変えてくれるように頼む事は、まず不可能だと思います。親がしゃしゃり出ていらん事を言ったせいで、子供に迷惑がかかったら困る、という意識が働くからです。

    必要ならアルバイト制にして、仕事として成立させたら、色々解決する気がするのですが。。