書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「自称・発達障害」について①

 少し気になる記事を拝読したので、考えてみようとよく読ませて頂いたら、私この方の記事、以前にもブログに書いたなあと思いだしました。私とこの方とは、よほど考え方に差があるのだろうなあと思います。否定する気持ちは一切なく、ただ深く考えてみたいだけなのですが、どこか否定のニュアンスが出てしまったとしたら、それは私の人間性の低さ故です(自分が正しい、自分と違う意見を否定したいと無意識に考えている)。予めお詫びしておきます。

 拝読した記事というのは、以下のもの。(「adhdだと思い込んでいる低スペック人間が多過ぎる」?自称adhd批判にへもの申すー望月志乃のひびわれたまご)

「ADHDだと思い込んでいる低スペック人間が多過ぎる」?自称ADHD批判へもの申す - 望月志乃の ひびわれたまご|ADHD主婦

 

 数回読ませて頂いたのですが、何がポイントなのか、望月志乃さん(ブログ主さん)は何を主張したくてこの記事を書かれたのか、が、今ひとつ分からなかったので、ほぼ私の勝手な解釈で、進ませて頂きます。解釈が間違っている可能性もあると思います。

 多分、こういう事だろうな、と思うのが、

「『自称・ADHDな人が、自分はADHDなので〇〇は出来ませんが多めに見て下さい』と言う事に対する批判に対する批判」の文章だろう、という事です。

 批判の批判、なので、ややこしいです。

 一つづつ整理します。

 まず、「『自分はADHDなので、〇〇は出来ません』と言う人が存在する事は確かです。

 ただ、これが「自称」であるという状況が、私にはよく分かりません。

 「自称」という事は、病院で診断を受けていない、という事でしょうか。それはちょっと、社会に対して、通用しないんじゃないかと私は思うのです。

 私の息子も、ADHDではないものの、発達障害ではあり、学校に対して「発達障害なので〇〇は出来ない為、免除(或いはフォロー)下さい」と申請しています。当然ながら医師の診断書の提示も求められるので、つど診断書を取り学校に提出しています。 

 「この生徒は、発達障害なので支援が必要です」というような、ざっくりした診断書ではありません。いえ、こういうざっくりした診断書も取り、入学時に提出していますが、それとは別に、「特別扱い」をお願いせざるを得ない事態になるたびにその都度、そこに突出した診断書を医師に書いてもらい、提出しています。

 学校に「発達障害だから特別扱い」をお願いする時には、必ず、診断書の提出が必要となっています。少なくとも、息子が在籍してきた学校では全て、そうでした。

 なので、「差別されたくない」というような理由で、診断書を出さない生徒さんは、本人が「発達障害なので」と言っても、特別扱いはされません。たとえ病院に行っていて診断がついている生徒さんでも、診断書が提出できなければ、特別扱いはされません。

 学校、という場においては、「自称・発達障害」は通用しません。

 そして。一般社会も同じではないかと、私は思います。「自称・発達障害」は通用しないんじゃないか、と。

 なぜならば、発達障害が、「知的もしくは精神的な障害」だからです。目に見える障害ではないからです。つまり「フリをする」という事が可能だし、また、「そうではないのにそうだと思い込む」可能性もある、からです。

 本人に悪気が有る無い関わらず、「発達障害のフリをする」事は可能だし、「発達障害ではないのに発達障害だと思い込む」事もあり得ます。

 望月さんが指摘されているように、医師の診断も100%正確ではありません。医師によって診断が異なる事もあります。ですが、多くの検査をし(検査をするのは医師ではなく臨床心理士)、少なくとも半年は通院しないと診断は出さないわけで、全くかすりもしない健常者に対して発達障害診断を出してしまう医師は、そう多くはないだろうと思います。

 出してしまう医師もいるかもしれませんが、大多数の医師は慎重だと思います。

 逆に発達障害なのに「発達障害ではない」と診断する医師もいるでしょうが、診断に納得できない場合は病院を変えて再度検査し直してもらう権利は患者側にあるので、本当に発達障害ならば、永遠に診断名がつかない、という事は、あり得ないように思います

 つまり。

 社会に対して「私は〇〇は出来ませんが、許して下さい。或いは、支援して下さい」という「特別扱い」を要求する時には、その根拠となる客観的な証明書を提出するのが当然で、客観的証明書を提出できない人は、特別扱いを要求はできない、というのが、基本的な理解だと思います。

 今のところ、医師の診断書というのが、その人が本当に発達障害であるという唯一の客観的な証明手段です。あくまでも今の時点では、という事ですが。もしかしたら将来、MRI画像などで、一目で障害が認定できる時代が来るかもしれませんが。

 つまり。

 「自称・ADHD」というのが、診断を取っていない人、という意味であれば、「自称・ADHDの人が、社会に対して特別扱いを要求する事」は、通らないだろう、と思います。

 なので、「自称ADHD(の人が特別扱いを要求する事)を批判する事」は、おかしな事ではないと、私は思います。

 なので。「自称ADHD(の人が特別扱いを要求する事)を批判する事」を批判されている望月さんのご見解には、私は共感は出来ませんでした。

 

 望月さんの他の記事もいくつか拝読させて頂いたのですが、「発達障害は左利きのようなものである。不便だけれど、それだけのこと」というような認識を、持っておられるようです。

 左利きと発達障害は、全く異なります。これは、グレーや軽度でも言える事です。

 左利きの人は、幼い頃に矯正すれば、右手もある程度使えるようになります。また、矯正せずに左利きのまま生きても、生きるか死ぬかというような「生きづらさ」は生じません。仰る通り、不便だ、という程度です。

 でも、発達障害の「〇〇が出来ない」という部分は、どれだけ幼い頃に療育を行っても、どれだけ適した環境で育っても、どれだけ努力しても、絶対に「出来るようにはならない」のです。他の事で補う事は出来ますから、療育を行うメリットはありますが、障害が消える事はありません。絶対に治らないから、障害なのです。

 例えば息子の場合、他人の気持ちが分からない、という障害特性を持っています。幼い頃から療育に通い、「こういう時は、人は、こういう風に感じる」という事を、一つひとつ後天的に学んで来ました。なので今は、ある程度の社会生活は出来ますが、それは、「こういう時は、人は、こういう風に感じる」という知識から引っ張って来ての理解であって、彼が自然に彼の心で感じているものではありません。なので、応用も効かないし、知らないケースではさっぱり分かっていません。左手の代わりに右手を使って箸を握る事ができるようになる、というような、完成度の高い「補完」ではないのです。他人の気持ちが分からない、という息子の障害特性は、一生治る事はありません。

 また、例えば、聴覚のひどい過敏さは、発達障害に多い障害特性です。グレーや軽度の方にもよく見られます。これも、どれだけ努力しても、過敏さが消える事はありません。小さい音が大音響で聞こえてしまう人、ある種の音に生理的に耐えられない人は、一生、そのままです。治りません。左利きの人が練習すれば右手も使えるようになるように、音の過敏さも何らかの訓練で治ったりはしません。治りません。だから、障害なのです。私は、グレーと診断された発達障害児で、教室の雑音が耐えられない為、授業中は耳栓をしている、という子を、何人も知っています。彼等は、板書と教科書で勉強をし、教師の声を聞く事は諦めています。

 発達障害、というものに対する考え方、捉え方が、望月さんと私とでは、大きく違うなと、上の記事でも改めて感じました。

 今の日本では、望月さんのような考え方捉え方が、主流なのでしょうか。もしそうだとしたら、それは何故なのだろう。

 私は個人的には、自称ADHDの方が社会に対して特別扱いを求めても、構わないと思っています。何故なら、それは、通用しないからです。学校の対応一つ見てもよく分かる事で、診断書がなければ、社会は対応しません。

 ですから、「社会に対して要望した特別扱いが、認めてもらえない、自分が発達障害だと認めてもらえない」と憂いでいる自称ADHDの人が増えているのだとしたら、それはなんというか、非常に不幸なことだと感じます。何故そういう方々は、認めてもらって当然だと考えるのか、何故望月さんはそう考えておられるのか。私には分からないのです。

 そもそも、発達障害を自称のままにしておくメリットが(診断を避けるメリットが)私には分からないのです。

    自称・発達障害って何だろう?   それは発達障害なのだろうか、それとも別の何かなのだろうか、そんな迷宮に入ってしまいます。