書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

社会常識の変化と発達障害

 一昨日「今の世の中、完璧に自立していなければ、社会人にはなれないらしい」という記事を書きました。

oinor-i.hatenablog.com

  この所感は、発達障害児の親である私の、個人的偏見なのかしら、と思っていたら、今日、人気ブロガーさんが同じ内容の記事を、精神科医師の視点から書いて下さっていましたので、勝手ながら引用させて頂きます。こちらです。

「TPOのできた発達障害な人でも働きにくい社会」とそのコンセンサス - シロクマの屑籠 (hatenadiary.com)

 上記記事から、要点をいくつか抜粋させて頂きます。

 

「大人の発達障害」と診断される人々に診察室で出会っても、プライベートで出会っても、彼らの大半は礼節や礼儀作法をしっかり身に付けている。少なくとも、そういったTPOがなっていない人にはあまり出くわさない。もちろん、空気を読んで当意即妙の発言ができる/できないであるとか、会話中の手足の挙動とか、そういった部分から発達障害の特性が垣間見えることは、ある。けれども古典的な自閉症のような重度の発達障害ならいざ知らず、「いまどきの大人の発達障害」と診断されている人のなかには一定のTPOを身に付けている人がたくさんいるし、そのおかげでプライベートな付き合いが成立するとも言える。
 
 ところが、TPOのしっかりした「大人の発達障害」の人でさえ、社会適応には四苦八苦していることが珍しくない。そのなかには「昭和時代だったら、ここまでTPOがしっかりしていたらセーフだったのでは……」と思えてしまう人々も混じっている。TPOさえしっかりしていれば、発達障害の人でも働ける場所があったのが昭和時代だったのではないか。

2020年代の、とりわけサービス業の最前線にはそういう人はなかなか見かけない。たとえTPOがしっかりしていたとしても、ASDADHDの人が働ける職域はそれほど広いとは言いづらい。傑出した才能を持ったASDADHDの人が特別な待遇を受けることも無いわけではないが、それらはあくまで例外だ。人によっては、いわゆる障害者雇用という枠での採用や、あるいは授産施設で働いている場合もある。

社会のなかで「大人の発達障害」な人が非-障害者雇用として働くためのハードルは昭和よりも高くなっていて、しかも、そのことについての社会的コンセンサスも(いつのまにか・たぶん)できあがっている

 非-障害者雇用として働くための必要条件が厳しくなり、TPOがちゃんとしているだけでは足りないということになり、現在の「大人の発達障害」なる人々が職域を狭められているとしたら、それは、個々人の「障害」だけが問題とはちょっと考えられない。社会が人を受け入れる力を失っている、あるいは、働く人間にかんする社会的なコンセンサスがいつの間にか変化してしまっている

外来でしばしば見かける、今日の診断トレンドからみて発達障害とみなされるけれどもTPOはしっかりしている学生さん、主婦、中年男性といった人々。彼らはきっと、数十年前には疾患とは診断されていなかっただろう。 
 だが、そもそも、どうして彼らは精神科に来なければならなかったのか? なぜ、それそのままの姿で職場や家庭で生き続けることが難しくなってしまったのか? TPOの習得だけでは不十分だったのか? 
 個人にではなく社会に焦点をあてて考えた時、昔は常識ではなかったことが現在ではスルリと常識になってしまっていることについて、私は不思議の念に駆られる。

 いつの時代もそうかもしれないが、私達は、すごく興味深い社会変化のプロセスに立ち会っている、はずだ。そこで生きる最適解について考えるのもいいけど、生きなければならない社会を貫く道理やコンセンサスを追っていくのも楽しみがある。

 

以上、あらすじ的にかなり中略して、抜粋させて頂きました。

 この方は精神科医さんなので、やはりどこか客観的というか、他人事というか、現状分析に終始して終わられております。この方ご自身も、発達障害の気がおありだとどこかに書いておられた記憶がありますが(記憶違いなら大変申し訳ありません)、発達障害であっても、能力がずば抜けて高い為に、社会に受け入れられて生きておられるわけで。能力のずば抜けて高くない発達障害者の行く末などは、やはり他人事になるのだろうと思われます。

 発達障害当事者の母親である私が、「生きるか死ぬか」と髪振り乱して悩んでいる問題を「興味深い社会変化のプロセスであり、これを追っていくのは楽しみである」とまとめておられますのでね。

 いえ、責めているわけではありません。他人にとっては、他人事であるのは当然なので。ああ、ドクターらしい文章だなあと思っただけです。

 ただ、発達障害当事者としては、この現状をどうやって生き抜いていったらいいのか、がなんといってもメインに来るわけです。

 上の記事では、「社会に受け入れられない発達障害者は、障碍者雇用で生きていけばよし」的な解釈になっていますが、先日の記事に書きましたように、 

oinor-i.hatenablog.com

 発達障害者が、障害者雇用を使うのは、かなり難しいのが現状です。ドクターは、こういう現状は、あまりご存じないのだと思います。障碍者手帳申請に必要な診断書を書いて終わり、だからです。あ、これも責めてはいません。

 要するに、発達障害者は、健常者としても、障害者としても、社会参加できないのが現状だと、私は認識しています。

 

 上に紹介させて頂いたブログ記事にもあるように、以前は発達障害者も、なんとか社会に受け入れられて生きていられました。それだけ社会に余裕があった。

 でも今は、社会にその余裕はありません。完璧に自立できている人間でないと、社会参加は出来ない。それは、「頑張るか死ぬか」の記事で私が書かせて頂いたように、大学の先生方の共通認識でもあります。

 これからの社会が、経済的により豊かになっていくとは考えられないし、インフレが進んで企業に余裕が出るとも考えらえません。つまり、以前のように、発達障害者を受け入れる余裕のある社会に、また戻るとは、とても思えません。むしろ、社会人に求められる「完璧さ」は、より増していくと思われます。

 それでも、なんとか生きていかねば。なんとか息子を生かせていかねばなりません。

 いつもいつも、こんな悲壮な事を考えているわけではありませんが、この思いは常に私の心の底にあって、私の頑張る理由になっている気がします。頑張るというか、頑張らざるを得ない、というか。本当は、私はのんびりゆっくり生きていたい人間なのですが、現実は私にそれを許してくれません。

  

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 今日もまた、被害者意識満載の記事で、失礼しました。明日からは、まともな記事を書きます。