書くしかできない

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「自称・発達障害」について②

 「自称・発達障害」という方の存在について、前回からツラツラ考えており、やっと自分なりに結論が出た気がするので、今日はそれを書きます。

 自称・発達障害の方、というのは、「自分は発達障害だと考えているが、診断は取っていない人」、というのが私の理解です。

 何故診断を避けるのか、についての理由は、いくら考えても分からないので、そこは不明のままにしておきます。

 ただ、「自分は発達障害だと自覚する」メリットと、「診断を取らなくても構わない(自称でも構わない)」と考える理由について、きっとこういうことではないかというものが自分なりにまとまったので書きます。

①自分は発達障害だと自覚するメリット

 自分の障害特性(出来る事と出来ない事)を理解し、出来る事は伸ばし、出来ない事は別の方法で補完するか、潔く諦める、等の対処ができる。特性が分かれば、無駄な努力や、無意味な自己批判、自分責めを止める事ができる。障害特性に合わせた人生設計を考える事ができる。

 

②診断を取らなくても構わない(自称でも構わない)理由

 他人に対して、「私は発達障害なので、〇〇が出来ません。大目に見て下さい。或いは配慮して下さい。許して下さい」等と、言っては行かないから。障害故の様々なエクスキューズを自分に許すのは、自分の心の中だけでに留め、他人に対してはそれをしていかないから。他人に何ら求めないアピールしないのであれば、他人に対して発達障害を証明する必要もなく、よって、証明手段である医師の診断を受ける必要もないから。

 

 まず、①については、その通りなのですが、ただ、これは、「自称」に特化したメリットではなく、「発達障害を自覚する」事全体に対するメリットです。自称にこだわる部分で大事なのは②だと思います。

 その②ですが。

 「自分は発達障害である」という事を、自分の中だけに留める事ができるという事は、自分の障害特性に対し100%自力で対処できる人、という事になりますが、そういう人を、果たして「障害者」と呼んでいいものかどうか。

 発達障害という障害名は、福祉的意味と、医療的意味を持っています。

 福祉的意味合いで言えば、例えば、重い自閉症で一人では生きていけない方には年金が下りる、というような事です。医療的意味合いで言えば、幼い頃に療育を受けたり、精神的に苦しい場合は服薬を受けたり、という事です。

 いずれも、放置しておくと自力での対処が難しいからこその「障害診断」です。

 もし、「ああ、私にはこういう障害特性があるのね。だったら、こういう風に生活すればいいのね」と自力で対処できるレベルであれば、それはただの「個性」であって、「障害」とまでは言えないのではないか、と私は思います。

 何故ならば、自力で対処できるレベルの人には、福祉的な支援も、医療的な治療も、必要ないからです。

 障害と個性は、キッパリと別れているものではなく、あくまでも地続き、グラデーションの濃いほうを障害、薄いほうを個性(健常)と呼ぶわけですが、無理やりそこに一つの「分け目」を作るのであれば、その基準は「自力で対処できるかできないか」にあると思います。

 自力で対処できる側は個性(健常)。自力ではどうにもならない側は障害。

 

 と考えるならば。

 「自分の障害特性に対し100%自力で対処できる人」は、発達障害では無いのではないか、と私は思います。医師ではない私の意見なので、あくまでも、個人的意見ですが。

 

 こう考えると、別方向の思考も浮かんで来ます。

 つまり。

 自称・発達障害の方が、診断を取らなくても構わない(自称でも構わない)理由である、「他人に対してエクスキューズして行かないから。あくまでエクスキューズは自分の心の中だけでに留め、他人に対してはそれをしていかないから」というものは、本当なのか?という疑問です。

 一人暮らしで、一人で仕事もされて、友達もいなくて、完全に孤独に生きている、という方ならあり得るでしょうが、家族がいて、とか、組織で働いていて、友達もいて、という場合、難しいのではないでしょうか。

 例えば家庭内で、「私は発達障害だから、これは出来ないの。ごめんね。自分ではどうしようもないの」とか、「感情的に叱ってしまうのは、お母さんが発達障害だからなの。自分ではどうしようもないの」とか、家族に言い訳してはいないでしょうか。発達障害だから、というフレーズを口に出さなくても、自分が出来ない根拠を発達障害故だとし、「だから出来ない」「努力しても無理」「仕方ない」「家族には諦めてもらうしかない」という状態に甘んじているのであれば、それは、他者に対して十分エクスキューズしている態度だと私は思います。

 組織でも、友人関係でも同じで。例えば、待ち合わせに必ず遅れてしまう人が「私は発達障害だから仕方ない。周囲には我慢してもらうしかない」と考えているとしたら、それは、他者に対して十分エクスキューズしていると言えると思います。

 他者に対して、「私は発達障害だから」と言ってはいなくても、様々な自己の欠点に対して、「仕方ない。これが私だから諦めて」と、諦める事を他者に押し付けるなら、そしてその根拠として自分の意識の中に「だってこれが私の障害特性だから」というものがあるのなら、それは、他者に対して障害をアピールしている事と同じだと私は思います。

 これについては、健常者だって欠点はあるし、人間というのはお互い持ちつ持たれつの関係であり、お互いの欠点を補いあって生きているではないか?という異議が出されるかと思います。

 確かに、健常者にも欠点は沢山あります。ですが、「健常者」と「自称・発達障害者」の違いは、健常者は自分の欠点を自分の責任だと考えている点です。一方、「自称・発達障害者」は、ご自身の欠点を、障害のせいだと考えておられます。ここが大きく違います。

 自分の欠点を、自分自身で請け負うのか。それとも障害故だとするのか。「自称・発達障害者」は、障害故とすることで、欠点を治す事から逃れます。周囲に対し、自分が欠点を治す事を諦めてもらおうとします。なぜならば、自分は障害者だから。出来ない事は出来ないのだから。

 でも。本当に障害者なのでしょうか。

 「自称・発達障害者」の方は、診断を取っておられない以上、発達障害かどうかは明確ではありません。グラデーションの濃さでいえば健常の範囲かもしれないし、障害ではなく別の病気かもしれません。

 自分は発達障害ではないのに、発達障害だと思い込んでしまう事には、様々なデメリットがあります。

 例えば、時間を守れない人が、自己判断で「発達障害だから仕方ない」と決めつけたとします。でも、実際にはそうではなかったとしたら。適切な努力をすれば時間を守れるようになるのに、最初からそちらを諦めてしまうわけです。また、発達障害以外の障害や病気が隠れている場合もあります。パーソナル障害やウツなどの精神疾患だった場合、治療すれば治るわけです。障害だから治らない、と放置している事は、無駄に人生のQOLを低める事になります。

 

 私の考えを整理すると、以下のようになります。

 人間には様々な個性があり、出来ない事も人それぞれ。出来ない事があっても、苦手な事があっても、自力で対処できるレベルであれば、それは障害ではない。「個性の範囲なら障害じゃないのでは?」とよく言われるけれども、本当にその通りで、個性で片付く程度なら障害ではない。

 また。 

 あからさまに「私は障害だから」と言わないまでも、障害特性故の自分の「出来なさ」を他者に許してもらうよう求めるなら、それは、障害を他者にアピールしているのと同じ事で、であれば、本当に障害なのかどうか、証明するべきではないか。これは、モラルとして、そうすべきではないか。

 また、自分の「出来なさ」を克服する事を諦める根拠として、障害故だとする場合、同じく本当に自分が障害なのかどうか、医師の診断を受けるべきではないか。発達障害ではない、もしくは別の治る病気の場合もありうるのだから。

 

 以上3点より、私は、「自称・発達障害」という生き方は、支持できません。最初にも書きましたが、何故そういう道を選ぶ方がおられるのか、その理由は私には分かりません。

 ただここまで整理して分かった事は、「自称・発達障害者」と「診断済み・発達障害者」では、まったく違う人生を送るのであろうな、という事です。

 「自称・発達障害者」と「診断済み・発達障害者」は、もしかしたら、ある一瞬には同じ起点に立っているかもしれません。そこから、診断を取るか、取らずに進むか、で、人生は大きく二方向に別れます。

 私には、「診断済み・発達障害者」の送る人生のほうが、心の安定はあるだろうなと思います。診断を取り、自分が本当には何であるかを確認する事は、大きな心の支えになるからです。自分が本当には何であるかが分からず、おそらくこうであろう、という推測の中で、様々な問題を抱えて歩いていくのは、しんどい事だろうと察せられます。支えのないぐらぐらした人生になりはしないかと案じられるのです。ですが、全ては自分で選ぶこと。他人が口出しする筋合いはありません。ですので、ここに私見を書きとめるに留めます。

  

 ここには触れませんでしたが、ご自身ではなくお子様が発達障害の疑いがある場合は、早めに診断を受ける事が大事だと私は思います。診断を受ければ療育が受けられるから(療育を始めるのは幼児の頃が最適と言われています。これは私も息子を育てて実感しています)です。また、診断を受ければ、子供の育て方も、障害特性に適したものに変える事ができるからです。健常児の子育てと、発達障害児の子育ては、大きく違います。障害特性に合った適切な環境で育つ事で、発達障害児も健常者の社会で生きていく事が可能になる場合があります。逆に、障害特性を理解されずに不適切な環境で育つと、二次障害を起こす危険があります。自身が発達障害であれば、「自称」という道を選ばれるのはご自身の自由選択ですが、お子様が発達障害の場合は、診断を取ってあげてほしいと私は思います。障害名を他人にカミングアウトするかしないかは、また別問題です。カミングアウトすれば、より、配慮のある環境で育てる事ができますが、同時に差別も受けます。そこもまた、各家庭個人々で思慮判断していく事だと思います。

 

 ほんの数十年前には、発達障害など誰も言ってなかったのです。それまでの親は、子供が何かおかしくても「子供が悪い」で片づけてきました。「子供自身も困っているのではないか」という視点は持っていなかった。それが少しづつ子供目線で子育てをする親が増えて来て、それまでは「変な子」で片づけられていた子供達を、「発達障害」という一つのくくりで考えるようになったのです。そして少しづつ特性が研究されてきて、発達障害の中に様々なタイプがある事も分かって来ました。タイプに合わせた子育て方法も研究され始め、障害を持ちながらどうやったらうまく生きていけるのか、を模索する、今その最初の一歩に辿りついたかつかないか、の段階です。だからまだまだ不完全で、専門医も足りなければ福祉も行き届いおらず、不備を挙げれば枚挙にいとまはありません。

 でももし息子が、誰も「発達障害」など研究していなかった昔に生まれていたとしたら、息子は自分の障害特性を知る事もできず、ただただ生きづらさに苦しむことになっていたと思います。

 発達障害に関わる世界はまだまだ不完全ですが、それでも、これでも、何も研究されていなかった所から、沢山の人が苦労しながら、やっとここまでもってきたのです。その苦労の蓄積の恩恵に、息子もあずかっています。息子が他者に、自身の障害特性を語る事ができるのは、発達障害について研究してくれた先人の、また、研究の元となった臨床データの蓄積の、おかげです。誰も発達障害について研究していなければ、誰も病院のドアを叩いていなければ、息子は今、自分の特性を自分で知る事すら出来ていないのです。

 発達障害を取りまく状況は、決して完璧ではありませんが、それでも、今現実に与えられているものを最大限利用し、少しでも幸せに生きていけるように進んでいく、私達がすべき事は、そういう事じゃないかと思います。