書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

発達障害者と安楽死

 今朝は実に爽やかな青空で、空気もひんやりと新鮮で、これを書いたらすぐにお散歩に行こうと思っています。

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 こんな爽やかな朝に、深刻な記事を書くのもどうかと思うのですが、書いてしまいます。読まれる方は、どうぞ夜にでも、、、。 

 先日、まさに私が日頃から考えている事を、どんぴしゃりと書いて下さっている記事を拝読しました。勝手ながら引用させて頂きます。こちらです↓。

新幹線殺傷事件について発達障害の自分が思うこと - けっこう毛だらけ猫愛だらけ

 こちらの記事は、新幹線の事件について書かれていました。「発達障害だからといって減刑しないで欲しい。減刑されてしまうと、ただでさえ肩身の狭い思いをして生きている発達障害者が、更に追い詰められる事になる」という内容だと拝読しました(違っていたらすみません)。私もまったく同感です。

 また、この記事では、犯人の家族についても、的確に記述されています。勝手ながら引用させて頂きます。 

小島容疑者のまわりには、彼を理解してくれる人がいなかったのかもしれない。ここが不幸である。彼が住んでいた家の祖母も「自殺するといって出て行きました」と言っていて、それなのに捜索願いを出した形跡もない。父親のコメントも、「長いこと会っていないのでわからない」という、ちょっと実父とは思えないほど他人事の感じで、この調子でずーっと本人が接せられてきたのだとしたら、かなり機能不全な家族だったのではないかという疑いを持ってしまう

 発達障害児は、誰かコアになり親身に寄り添って育ててくれる存在が絶対に必要で、更に適切な支援と配慮無しに健全に育つ事は絶対に無理なのに、犯人は不幸にもその両方を欠いたまま育ってしまった事が伺えます。しかし、発達障害児の親で、こういう風に無責任な子育てをする人は、少なくありません。

 それにしても、いくら犯人とはいえ、ここまでプライバシーが何から何まで報道されてしまうのは、異常だと思います。マスコミに何でも見せてしまう、語ってしまう犯人の家族には、不穏さを感じずにはいられません。身内が、子供の日記や蔵書を、いたって軽々にカメラの前に晒して平気、というのは、、、。普通の感覚ではちょっと考えられない。犯人が、いかに「守られずに育ってきたか。”家族の当たり前の情”を欠いた環境で育てられたか」が伺え知れ、不幸に不幸が重なったケースなのだと感じました。

 

 少し話題は変わりますが、上の記事については全ての記述について共感できたのですが、私が特に心に響いたのは、実は以下の文章でした。こちらも勝手ながら抜粋させて頂きます。

反対意見ももちろんあると思うが、私は今でも、どこにも行き場のない、生きる場所が見つからない精神障害者に対しては安楽死を認めるべきだと思っている

  この方は、精神障害者に対して、と区切って書かれていますが、私は、発達障害者とその家族に対しては、と、もう少し対象を広げて欲しいと思うので、そこだけが違う点といえば違います。

 この社会は圧倒的多数の健常者に合わせて作られている為、発達障害者の居場所は無いのです(文句を言っているわけではありません。事実を書いています)。それでも、発達障害者が生きていかねばならないとしたら、無理やりこの社会に自分を合わせるしかなく、それがどれだけ苦しい事なのか、は、健常者には分からない事だと思います。

 例えば。発達障害者は五感が敏感な人が多いですが、小さい音でも大音響に聞こえて辛い人がいます。音の種類によって、どうしても我慢できない音があったりもします。学校や職場に雑音はつきもの。健常者にとって気にならないレベルの雑音が、音に敏感なタイプの発達障害者には、耐えがたい騒音に聞こえるわけです。普通の雑音の全てが、歯医者のドリルの音のように聞こえたとしたら。それでも、学校に通わなければなりません。職場に行かなければ生きていけません。それが毎日毎日続くのです。

 たとえば、の例を挙げました。

 せめて自分が働く環境を選べるように、息子にはレールを引いて頑張ってもらっていますが、どこで脱落するか分かりません。危ういです。脱落すれば生活の手段がなくなり、食べていけません。発達障害者は本当に、「できる事」と「いられる環境」がとてつもなく少ないのです。ほとんど無い、ほぼゼロです。その中で、唯一「コレなら」「ココなら」というピンポイントに向かって頑張っているわけですが、そのレールから落ちたらもう、どこにもいられません。何もできません。

 どうしようもなくなった時、安楽死という手段があればどんなに助かるか。息子だけ死なせるのはあまりにも辛いですから、私も一緒に死にたいと思うので、家族にも安楽死を認めて欲しいです。そうすれば、今を安心して生きていけると思います。いざとなれば安楽死があるから大丈夫、と。

 今は、脱落したら一巻の終わり、という恐怖と、日々闘いながら生きています。毎日毎日それが意識の上にのぼっているわけではありませんが、心の中にしっかり根を張り、私を休ませません。休んだらダメ、脱落するぞ、とそれが私を叱り続けます。私には、息子に幸せな人生を歩ませる責任があるからです。

 ちなみに、神仏の世界では、自殺すると、死んだ後、かなり長期間、闇の世界に留まり成仏できません。それは分かっていても、それでも、生きる手段のない発達障害者として、この社会で生きる苦しさよりはマシではないかと、私は思うのです。

 それとも。

 どんなに苦しくても、それでも、生きていなければいけないのでしょうか。地獄で拷問にあっているような毎日でも、それでも、人は、命が尽きるまで生き続けなければいけないのでしょうか。そうだとしたら、生きるという事は、なんと残酷な事でしょう。

 発達障害児を産んでしまった私にとって、子供を産むという事は、歓びではなく恐怖です。こんな恐怖が自分自身のものになるかもしれないのに、それでも人々が日々平然と子を産みだしている事に、時に唖然としてしまいます。みんななんて楽天的なのだろう、と。でも考えてみたら、かつての私がそうだったのですから、他人のことをとやかく言えません。誰も発達障害児を産むかも、なんて思いませんよね。発達障害者の現実なんて考えもしませんよね。それが普通です。

 こういう事を、毎日、目をキラキラ輝かせながら頑張っている息子には、とても言えません。息子には「脱落しても大丈夫だからね。精一杯頑張ればそれでいいんだからね」と伝えて安心させています。でも、本当は、大丈夫ではないのです。大丈夫ではないのに、大丈夫と言う事のきつさは、親が負っていくべきものだと思っています。

 そして、万一大丈夫ではなかった時の責任も、親が負うべきなわけです。責任をとるために、安楽死の自由が、ぜひとも欲しいと願います。安楽死がなければ、私はどうやって、息子の人生に責任をとってやればいいのでしょう。

 暗い記事を書いてしまってすみません。皆様は、どうぞ爽やかな良い一日をお過ごし下さい。

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 (*上記記事のブロガー様、勝手に引用させて頂き申し訳ありません。もし不都合がありましたら、お手数ですがコメント欄までご一報ください。速やかに削除させて頂きます。過去の記事にも、沢山共感させて頂いております。有難うございます)