書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

虐待をなくす方法

 雨は上がったものの、風はまだ強い月曜日です。少し湿気もあり、肌寒い感じです。夫と子供が出かけた後、カタカタと家事を片づけ、PCに向かっています。

 朝、家族で朝食を取っていた時に見ていたニュースで、新幹線の事件を知りました。先日の5歳女児虐待の事件といい、辛いニュースが目に入ります。

 新幹線の犯人は、乳幼児期に子育て放棄され、その後も親からの暴力や放任があったとの事。犯人自身に器質的な問題があったのかもしれませんが、それでも、不適切な子育てをされてしまったという事が、犯人の心を壊してしまった可能性は高いと私は感じました。

 虐待されて死んでしまった子供。不適切な子育てをされて心を病み犯行に及んでしまった犯人。

 ニュースでは、どうやったら虐待親から子供を救えるのか(児童相談所と警察が連携すればいい、、等)、どうやったら新幹線のような密室での犯行を防げるのか(乗車前に手荷物検査を実施すべき、、等)、そういう論点で意見が交わされていました。でも、そういう「出口」の問題を考えるよりも、そもそも子供が虐待されない、不適切な子育てをされない方法を、考えたほうがいいのでは、と思いました。

 子育てがいかに大切か、という事、人間形成の根幹だという事を、みんな多分、分かっている。それでも、子育ての問題が解決されないまま放置され続けているのは、いったいどうしてなのだろう?

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 子育てって、江戸時代の士農工商の「農」なんじゃないかと、つらつら思います。

 子育て期の母親には、非人間的な苦役や労働を強いられるので、モチベーションを高める為に、「子育てというのは素晴らしい仕事である」というキャンペーンが行われています。それは、農業従事者の身分が士農工商の上から二番目という高位置に置かれているのと、同じなのではないかと思うのです。

 でも、それらのお題目(子育ては素晴らしいというキャンペーンや、高い身分に置かれていること)には、実際には、何の実態もない。子育ては素晴らしい、農家の身分は商家より高い、だから何?という話です。そう言われたところで、実際に子育ての苦労が減じるわけでもなく、農業の困難さが解消されるわけでもない。ただの「お題目」です。子育てや農業の苦労から目をそらさせる為ごまかす為の「目くらまし」です。

 もし本当に「子育ては素晴らしい仕事である」というのであれば、その素晴らしさに匹敵する真剣さを持って、子育て遂行者の苦しさを助ける手立てを考える筈で。それを誰もしない現実がある以上、お題目がどうであれ、実質的には、「子育ては素晴らしい仕事、ではない」のです。

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 話の視点を少し変えます。

 私の子供も発達障害児ですが、発達障害児は、今、6人に1人生れてきていると言われています。ガチの発達障害が5%、ウチの子のような障害はありながら自立して生きていける程度が5%、障害名がつかないグレーが5%(雑ですみません)。何が言いたいかというと、発達障害が15%生まれている、という厳然たる現実が存在する、という事です。そこはどうしようもない、わけです。

 同じく。幼児を虐待する、また、子育てを放棄してしまう人というのは、心が弱い人だと思うのですが、そういう「心が弱い人」も、何パーセントかの割合で、確実に生まれてきているわけです。そこはもう、どうしようもないわけです。

 ここでお断りしておきますが、私は「心が弱い人」をけなしたいわけではありません。ウチの息子が、発達障害というハンデを持っていると同時に、沢山の長所を持っているのと同じで、「心が弱い」というハンデ(あえて言えば)を持っている人も、同時に沢山の長所を持っていると思うからです。例えば、とても優しいとか、人を責めないとか、地道で真面目である、とか。一人の人の中には、長所もあり短所もある。なので、短所の部分だけに注目してその人を馬鹿にしたり見下したりするのは、間違っていると私は思っています。

 ただ、「心が弱い」という短所を持っている(でも長所も沢山持っている)人が、一定数存在する、という現実がある、という事が言いたいのです。心の弱さも、障害と同じで、生まれ持ったものである以上、その人の咎だと責めることは不適切だと思います。 

 ところで。

 虐待する人は自分も虐待された過去を持つ、情状酌量の余地があるのだから、心が弱いと切り捨てるのはおかしい、というご意見もあると思いますが、虐待された過去を持っていても、我が子を虐待しない人もいます。自分が虐待されたから我が子もまた虐待してしまう、虐待のループを止められない事もまた、心の弱さの一つだと思います。貧困家庭だから、とても育てにくい子供だから、というのも同じです。貧困でも育てにくくても、虐待や子育て放棄をしない人はしないのです。してしまうというのは、やはり心の弱さがあると思います。

 また、自分が我が子を虐待する可能性があると分かっているなら、子供は作らない、という選択ができる筈なのに、子供を作ってしまったという事も、心の弱さ故だと思われます。確実な避妊方法は今の世の中、存在しますから、やろうと思えば避妊はできる。のに、自分が子供を虐待する可能性がある、と分かっているのに、子供を産んでしまう、という時点で、「心が弱い」と思うのです。何に対して弱いのかといえば、「子育ては素晴らしいキャンペーン」に負けてしまう、という弱さです。子供を産みさえすれば、自分は素晴らしい存在になれる、自分に価値を感じられる、もしくは、子供を産まねば一人前ではないという勘違いをしてしまうという弱さです。

 ある有名な心理家の方が、5歳女児の虐待死について「世界に愛があふれますように」と、ふわふわした事を発言されていました。愛があれば、過酷な子育てが乗り切れると思うところが、ズレているなあと私は感じました。子供を虐待する人にだって、愛はあるはずです。子供を愛してはいる。愛してはいるけれども、心が弱くて子育ての辛さに負けてしまうのです。そして、それは本人の罪ではないのです。

 障害児が一定数確実に生まれてくるのと同じで、心が弱い人も、一定数確実に生まれてくる。そして、そういう人は、過酷な子育てに耐えきれず子供を虐待したり、子育てを放棄したりしてしまう。であれば、そういう不幸を減らす方法は、「子育てが過酷な労働である」という事実を、全ての人が認識するしかありません。そんな事をすれば、少子化がますます進むわけですが、少子化を進めたくないのであれば、心の弱い人でも、過酷な子育てが乗り切れるように、社会が、福祉という立場で、何らかの手立てを打たねばならないと思います。

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 行政では、児童相談所と警察が連携して、虐待を疑われる家庭に乗り込んで、子供を救い出し、養護施設などに保護しよう、という動きがあるようです。これはこれで良い案ではありますが、万能ではないと私は感じます。

 なぜなら、子供を一時的に保護しても、いずれまた親のもとに返すのであれば、そこでまた虐待が行われる危険があるからです。行政に子供を奪われた親が、そのことで生まれ変わったように心を強くできるのか、といえば、まず無理だと思いますし、子供が帰ってきたら今度は二度と虐待が外にバレないように、家の中でひっそりと行うようになるだけの事だと思います。

 子供を親のもとに返さず、ずっと養護施設や里親が育てる場合も、施設の狭さや子供の数の多さ、世話をする大人の数の少なさ、里親も人間であって過酷な子育てに耐えられない場合もあるという事等を考え合わせると、子供にとって不幸な処置である事は変わらない気がします。

 また、虐待の噂がたった家で、必ずしも虐待が行われているかどうかも、不確かです。虐待ではなく、親子が必死になってやり取りし、なんとか関係性を構築しようと試行錯誤をしている最中に、子供が大声を出してしまう、という事は往々にしてあります。特に発達障害児は大声を出しがちです。それが虐待めいて聞こえる場合もあります。それを虐待だと決めつけて、無理やり母子分離する事が、正しい処置だとは思えません。特に子供が発達障害だった場合、急に生きる環境を変える事は、百害あって一利なしです。

 では、どうしたらいいのか。

 子育てがあまりにも辛い人、耐えられない人の、「駆け込み寺」的な施設を作るべきだと私は思うのです。親から子供だけ取り上げて保護するのではなく、一人では子育てできない母親が、他人の助けを借りながら母子一緒に暮らせる施設に入れるような場所が、あちこちにあればいいと思うのです。母子は父親から離れる事になりますが、子供を殺しかねないほどせっぱつまった状況なら、それは致し方ないと思います。

 子育ては家庭で行われるべきものですが、それが無理な場合は、社会が子育てを担う、これは全員の意見が一致するところだと思います。問題は、社会がどう子育てを担うのか、という点で、今は、子供だけ取り出して保護する方法が取られていますが、私は、母子まとめて保護したほうがいいと思うのです。

 「母子駆け込み寺」では、同じような母子が共同で生活し、更に彼女達をサポートする人達も一緒に生活する事で、孤独な子育てに追い詰められていた母親を、救う事ができると思います。「自分だけが大変」と思っていた母親は、「みんな大変なのだ」と気づく事ができるし、「自分だけで頑張らねば」と強迫観念に苦しんでいた母親は、「みんなが助けてくれる」と安心できると思います。

 子育てに行き詰って、子供を手放してしまったら(自ら乳児院などに子供を預けてしまう)、その時は「救われた」と感じるでしょうが、時間がたつうちに、罪悪感や自己嫌悪の気持ち、自己肯定感が保てない状態、子供が恋しくなる、等さまざまな苦しみが母親を襲うのではないでしょうか。

 母子で一緒に救われれば、そういった苦しみを、後に母親が感じる事はありません。むしろ母親は、苦しい子育てを放棄せず、しっかり自分で子供を育て上げる事ができた事で、自分を誇りに思う事ができます。

 この、「自分を誇りに思う事ができる」というのは、生きていく上で、とても大切な事だと思います。生きる力になるのです。

 子育て放棄をしている、虐待をしている親がいたら、子供だけ助けるのではなく、母子でまとめて助ける施設を作る事。これが、不適切な子育てからおこる様々な問題を解決する、一つの方法だと私は思います。

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 施設を作る事は、社会の仕事。では、私達個々人は何もしなくてもいいのか、といえば、そんな事はなく、私達一人ひとりも、すべき事がある、と私はとても強く思います。

 それは、「人の、劣っている部分を、馬鹿にしない」という事です。

 何故、子育てに苦しんでいる母親が、外に助けを求める事ができず、子供を虐待したり子育て放棄する方向に進んでしまうのか、と言えば、「子育てができない」と言ってしまうと、「最低人間」と見下されるからです。「心が弱すぎる。怠け者だ」と馬鹿にされ、助けてもらえるどころか、説教されるのがオチだからです。

 誰しもが、劣っている部分を持っています。誰しもが弱点を、短所を持っています。だから、他人が何かを出来ない事を、馬鹿にするのは間違っています。間違っているにも関わらず、何故か私達は、劣っている人を馬鹿にしてしまう。

 それを今日から止めようと、決める。一人ひとりがそう決める。そうしたら、「子育て出来ない」と苦しんでいる母親が、ラクな気持ちで外に対して、救いを求めていく事ができるようになると思います。

 母親が救いを求めてきたら、母子一緒に入れる駆け込み寺で、色んな人に子育てを助けてもらう事ができる。

 そうなれば、子育て放棄や虐待される子供がなくなり、不適切な子育てで心を病んでしまう子供や、死んでしまう子供が減るでしょう。

 大事なのは、私達一人ひとりが、他人の「出来ていない部分」を馬鹿にしない事、全てはここから始まると思います。もしこれができなければ、せっかく施設を作っても、「あの施設に入ると、あの施設出身だとあとあと子供が馬鹿にされはしないか。あんな施設に入った母親だと、私が馬鹿にされはしないか」と恐れ、苦しんでいる母親も施設を利用するのに二の足を踏むでしょう。

 言い換えれば。私達一人ひとりが、他人の「劣っている部分」を馬鹿にしているから、世の中から、子育て放棄や虐待が、無くならないのだとも言えるのです。口に出して馬鹿にするのではなく、心の中で馬鹿にしていたとしても同じです。そういうものは、相手に伝わるのです。

 一人ひとりが、他人を見下す事をやめる、馬鹿にする事をやめる、そういう気持ちを捨てる、そうすれば、巡り巡って、虐待で死ぬ子供をなくせる事に繋がると、私はそう思います。