書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「発達障害」を「ST気質」と言い換えるべきか。

 時々拝読させて頂いているブログに、興味深い記事がありましたので、今日はそれについて書きます。否定的な事を書かせて頂くので、元記事は伏せさせて頂きます。書いてみたらとても長くなってしまったので、お時間のある時にでも読んで頂ければと思います。

 

 では、始めます。

 その方は、お子様が発達障害不登校も経験されており、それについて沢山考え行動され、今は状況が上向きになっておられるとの事。そういうご自身の経験を活かして、不登校問題の渦中にいる親子を、助けたいと活動されている方です。

 私が興味深いと感じたのは、その方が、お子様のことを、発達障害ではなく、ST気質だ、としておられるところでした。その方は、「発達障害」という言葉はふさわしくないので「ST気質」という言葉を広めていくべき、と主張しておられます。

 その方は、お子様を「発達障害だ」とすることに大変な抵抗がおありだったそうで、でも、「ST気質」だと考える事で、お子様の特性を理解できるようになった、との事。

 その方の、ST気質についての記述を、勝手ながら引用させて頂きます。

 

******(引用始め)****

ST(スペシャルタレント)気質とは、その子の持つ気質のことです。

発達障害及びその周辺のグレーゾーンの人を指しますが、気質ですから、日常生活に支障をきたしている人にもきたしていない人にも使える言い方となります。

診断の有無も関係ありません。

発達障害という言い方は、日常生活に支障がある場合は障害だけれども、そうでない場合は障害とはならないというややこしさがあるので、本来なら不適切な表現ですものね。

そういう矛盾もありませんし、発達障害スペクトラムな部分も含んでいますので、とてもわかりやすい呼称だと思います。


子どもは気質ゆえ、集団生活、団体行動に馴染めないのですが、「できるのが普通」と誰もが思っているので、自分を押し殺して学校にいます。

学校は、自分が自分らしくいられない場所。

生きづらさを感じる場所。

子ども自身そう言いたいのですが、話す技術がなくて言えないのですね。


不登校となった子どものつまずきは、本当はつまずきではなく、自分らしく生きるためのきっかけ。

不登校に命をかけているのです。


子どもが不登校になったら、子どもに独特の気質があることを理解し受け入れること。

そして子どもが自分らしく生きるためにはどうすればいいのか、常識にとらわれず広い視野で考えることが大切です。

 

*******(引用終わり)****

 

 書かれている事にはとても共感するのですが、なぜ「発達障害」ではダメなのか? なぜわざわざ「ST気質」と呼び変えなくてはいけないのか?が私にはやはり、理解できませんでした。

 記事には、こう書かれています。

気質ですから、日常生活に支障をきたしている人にもきたしていない人にも使える言い方となります。(発達障害と違って)診断の有無も関係ありません。発達障害という言い方は、日常生活に支障がある場合は障害だけれども、そうでない場合は障害とはならないというややこしさがあるので、本来なら不適切な表現ですものね。そういう矛盾もありませんし、発達障害スペクトラムな部分も含んでいますので、とてもわかりやすい呼称だと思います」 

 「ST気質という言葉は、日常生活に支障がない場合にも使える」という事が、発達障害という言葉にはないメリットだと、この方は書かれているわけですが。日常生活に支障がないのであれば、わざわざ特別な呼称を使って認識する必要がどこにあるのだろうと私は思います。

 この方は、「ST気質」の人は、「集団生活、団体行動に馴染めない(よって不登校になる)」と書かれていますが、集団生活に馴染めないつまり学校に通えないという事は、すなわち「日常生活に支障がある」という事ではないでしょうか。

 逆に言えば、「集団生活に馴染める」人なら、あえて「ST気質」だと認識する必要もないわけです。

 集団生活に馴染めず学校に通えない、から、何らかの特別な呼称を用いて、その子の特性を理解し、社会的支援を与える必要性が出てくるわけです。

 だから。本来、「日常生活に支障のないST気質」の人というのは、存在しないと私は思います。いえ、軽いST気質の人なら集団生活も可能なわけですが、そういう人をわざわざST気質と他と切り離して呼称する必要性がないと思います。

 わざわざ他と切り離して呼称するのは、その人がその人の特性故に「日常生活に支障を抱えている」からです。抱えていないのなら、それでいい。何も特別扱いする必要はない。

  そういう意味で、私はこの方が、「発達障害」という呼称を否定し、「ST気質」という言い方を広めようとされている事に、そこはかとない違和感を感じております。障害という言葉を使いたくない、というお気持ちは分かるけれど、それこそが、発達障害側の人間が陥りやすい闇で、まず何よりも私達発達障害側の人間は、その闇を歯を食いしばって突破しなければ、次へは進めないのではないかと、私は思っています。

 

 発達障害児(者)が生きていくには、必ず、絶対に、社会的な支援や配慮の手が必要です。それは、健常者には得られない特別なものです。そして、多くは、人の親切心から来る手間暇思いやり忍耐、そして、税金が、その根源になっています。

 そういうものを頂く以上、それはただの「気質」ではなく「障害」であるという事を、明言せねばならない、と私は考えます。なぜならば、気質という言葉は曖昧過ぎるからです。

 気質なら、いずれ治るのではないか、と誤解されます。発達障害は障害なので、一生治らないという事は、言葉から誰でもが理解できますが、気質は違います。「頭痛持ち」等の気質と同じように、体質改善や生活改善で完治するのではないかと、思われる可能性が高いです。

 つまり。気質という名称を使ってしまうと、本人の努力で治るものだと誤解される危険があるのです。発達障害は障害なので、本人がいかに努力しても治りません。だからこそ社会的支援が必要なのに、気質という言い方をしてしまうと、「治るものに何故税金を使うのか」「本人が直そうという努力を怠っているのに、なぜ助けないといけないのか」という誤解を受けやすいです。

 

 私は以前から、発達障害者が、自分が発達障害だと公言する事の必要性を、このブログでも書いてきました。それには、まず、自分が障害者であると自覚する事のしんどさがあり、更に、障害をカミングアウトするで他者から差別や蔑みを受けるリスクがあります。

 それでも、発達障害を公言するべきと私が思う理由は、そうしなければ、必要な支援や配慮が受けられないからです。

 いや。

 発達障害を公言しなくても、必要な支援や配慮を要望する事は可能です。そして、親切な人や、親切な組織であれば、助けの手を差し伸べてくれるでしょう。ですが、そこには必ず「不公平感」が残ります。なぜあの人だけが特別扱いを許されるのか、という不公平感です。

 その不公平感をなくす為には、「障害者だから」という事実提示が、どうしても必要になってくると私は考えています。

 息子はこの春大学生になりますが、息子の行く大学には、早々に、発達障害である事と、できれば受けたい支援を、伝えてあります。

 発達障害である事を、学校側に、文書で伝える事のリスクは当然あります。学校側がどこまで情報をきちんと管理してくれているか、こちらには分からないからです。また、学校側に、障害者への差別意識がある人が、どれだけいるのかも、こちらには分かりません。

 それでも。息子が安心して通う為には、適切な支援の手が絶対に必要で、その為には障害をオープンにするしかないのです。この「適切な支援の手」というのは、客観的に見れば「特別扱い」に他なりません。他の子がしてもらわない事を、ウチの子はしてもらうという事。それを親として要望する根拠として「障害児だから」という理由づけは、ぜひとも必要となってくるのです。

 でも。もし学校側に息子を「発達障害」ではなく「ST気質」だと申請したら、どうでしょう。必要な支援を受けられるでしょうか。受けられる可能性は、とても低いと思われます。受けられたとしてもその支援は、担当者の親切心に左右される危ういもので、毎年確実に同じように安定して受けられるかどうかは不明であろうと思います。

 

 この方は、不登校問題について取り組んでおられるのですが、それなら尚更、障害を気質と呼び変える事は、避けるべきだと私は思います。

 生まれた我が子が発達障害だと分かった時、苦しまない親はいませんが、そこで、「障害ではなく気質なのですよ」と、受け取りやすい呼び名を勧めてしまう事は罪です。親はそれにしがみついてしまうからです。

 ですが、親が子の特性を「障害ではなく気質」と把握してしまったら、子供の不登校を防ぐ事はできません。

 なぜならば、不登校は、親の適切な対応だけでは防げないからです。学校が子供に適切に対応する事が不可欠だからです。むしろ、学校の適切な対応のほうが、親の対応よりもはるかに重要になります。

 学校の適切な対応というのは、その子の発達障害に合わせた支援や配慮です。

 例えば、発達遅延のある子なら、加配の教師を付けるという支援。この支援は、学校に対し、障害申請していれば要望可能ですが、ただの気質であれば申請はできません。

 例えば、味覚過敏がある子なら、給食を残す事を許可してもらうという特別配慮。この配慮も、障害を申請していれば要望可能ですが、気質であれば許可されません。

 例えば、自閉の傾向にある子なら、級友に対して不適切な言動を取る事が、悪意や我儘からではなく、障害故だと理解してもらい、イジメに繋がるのを防ぐという配慮。障害申請してれば可能ですが、気質であれば叶いません。

 親が、子供を、「発達障害である」と認めていれば、それを学校に伝える事は難しい決断ですが不可能ではありません。でも、親が子供を「障害ではなく気質である」と捉えていると、学校に対して「障害がある」と伝える事は不可能です。障害であると分かっていても、それを学校に伝える事は高いハードルなのですから、障害ではないと思っている親が、障害だと学校に伝える事は不可能です。

 よって、親が子供を「発達障害ではなくST気質だ」と捉えている限り、子供は学校から適切な支援を受ける事ができません。

 子供が必要としている支援や配慮は、障害申請していなければ受けられないものばかりです。そして、それらの支援や配慮無しに学校に通わされれば、どこかの時点で子供は不登校になります。

 

 障害だから支援を受ける。

 これが社会として当たり前の形だろうと私は思うので、先に引用させて頂いた方が、障害ではなく気質だと主張される事に、違和感を覚えたのでした。

 この方の子育ての姿勢や、現在行われている活動には、大変敬服するし共感もするのです。素晴らしいと思います。

 ただ1点、「発達障害」を「ST気質」と言い換えるべきと主張されている点についてだけ、違和感を覚えるのです。

 

 障害を気質と言い換えるデメリットは、必要な支援を得にくい、治ると誤解される、健常者に対してフェアではない、この3点を書いてきました。ですが実はこれだけではありません。これが「遺伝する」という怖さから、目をそらしがちだという点にも、注目せざるを得ません。

 発達障害は、確実に遺伝しますし、代を追うごとに濃くなっていきます。ですが、これを障害とはとらえず気質だととらえていると、必要な覚悟を欠いて子供を産む危険があります。遺伝するのですから、配偶者には自分に障害がある事を伝える義務があるのに、気質だと捉えていると、そこを曖昧に逃げてしまうでしょう。言わなくてもいいのではないか、と黙っている可能性があります。

 でも、実際に生まれてきた子は、親よりきつい発達障害を持っている。親の一方(もしくは両方)が発達障害者で、子も発達障害児。これは地獄です。いえ、それでも育てるという強い覚悟と準備を持って産むのであれば、良いですが、そうでなければ地獄です。

 遺伝という一点だけを見ても、障害を気質と言い換える事のリスクは、計り知れないと私は危惧します。

 昔は障害なんて言わなかった、と仰るかもしれませんが、昔と今では、社会が全く違うのです。ITが発達した現在、昔のような「コミュ力を必要としない仕事」は存在しません。「コミュ力を必要としない仕事」が存在していれば、発達障害者は生きていけましたが、今は、「人間にしか出来ない仕事=コミュ力を必要とする仕事」しか残っていません。これは、コミュ力に劣る発達障害者には出来ない仕事なのです。だから現在以降、発達障害者がこの世界で生きていく為には、社会的支援が必要になるのです。昔はそうではなかった、その通り。でもこれからは違うのです。

 

 上の記事の方が、気質という曖昧な表現を使われる理由は、障害という言葉の重さに耐えられないからだと思います。そこには、劣等感や、他者から差別されるというリスクが、大きく絡んでいます。でも、障害は障害なのです。障害でなければ、努力で普通の生活が送れるはずですから。努力しても普通の生活が送れないのであれば、障害なのです。蔑まれても仕方ありません。差別を受けるのも当然でしょう。私達障害側の人間は、それに負けてはいけないし、そこから逃げてはいけないと思います。

 強くなること。正直になること。フェアになること。

 それ以外に、発達障害側の人間が、幸せを掴む事は難しい。なんとかして逃げられないか、うまく誤魔化せないか、そうやって逃げている限り、本当の意味で安心できる人生は、来ないと思います。

 ある意味では、自分に対して、冷酷なほど強くなること。健常者という道を諦める。障害者として生きる覚悟を決める。どんなに「一見、健常者に見える」としても、発達障害の特性があれば、障害者なのです。それを正視せずに幸せになる方法はないと、私は思っています。

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 最後にこれを書かせて下さい。

 この長い文章を読んで下さった方、どうも有難うございました。で、お願いがあるのですが、どうぞ、引用させて頂いたブログを探さないで下さい。その方のお子様は、息子よりも年上です。その方は、それだけ永年その方の信念(障害ではなく気質だ)で育てて来られたわけです。私はその事を、尊重したいと思います。私はその方の子育てを否定するつもりは微塵もないのです。

 私が今日この記事を書いた理由は、その方を否定するという傲岸不遜な目的ではありません。そうではなく、正解の分からない五里霧中な発達障害育児において、私が正解だと信じている事を、発信したかっただけです。私は、親が、できるだけ早く子供の障害に気づきそれを正面から受け止めて、苦しくても適切な対応をする事が、子供を幸せに育てる事に繋がると思っています。障害じゃなく気質なんだとか、発達障害なんて無いんだとか、親が受け取りやすい様々な考え方があるわけですが、この記事を読んで下さった方が、そういう考え方に危機感を持つきっかけになればと思って書きました。目的はそれだけです。

 ではでは、最後まで読んで下さった方、どうも有難うございました。