書くしかできない

過ぎていく日々を書き留めています

「母性神話」と揶揄する人へ②

 前回の記事の続きです。

 

 前回は「これから出産する女性は、育てにくい子供が生まれる可能性を考え、覚悟の上で臨んでほしい。『産んだら何とかなる』はまやかし。私は発達障害児を産んで、子育てで死ぬ思いをした」というような内容の事を書きました。 

 前回の記事に反するようですが、私が今、つくづく思うのは、「息子を産んで良かったなあ」という事です。正直な気持ちです。

 勿論、こういう気持ちには波があり、しんどい時はとてもそんな優雅な気分にはなれませんが、それでも、波が落ち着き一段落すると、必ず、こういう気持ちが湧いてきます。「子供を産んで良かった」と。

 息子は今年大学生です。滑り止めではありますが、一応希望していた大学・学部に進学予定です。発達障害の特性を多分に持ちながら、なんとか健常者の社会で生きております。今のところ、精神的にも身体的にも、大きな躓きはなく、難しい部分は周囲の配慮を頂きながら、ほがらかに暮らしています。

 息子は精神的に幼く、部分的には3才児のような面を持っています。悪く言えば「危うい」、良く言えば「愛らしい」。私は息子といると、今尚彼の中に、3才の時の愛らしい彼を見る事ができます。

 「子供は3歳までに、全ての親孝行をする」とよく言われます。それほど、幼児の精神性は愛らしい。それを息子は、おそらく一生持ち続けるのだろうと思います。それが私に与える癒しは、大きいです。

 私の家族は、夫と息子と私の3人です。私は、生まれた時からこの3人で生きてきたような錯覚に陥る事があります。夫と二人だけなら、私達は家族にはなれなかったような気がします。もちろん、息子が発達障害でなければよかったのですが、発達障害であっても尚、私は、息子を産んだ事を後悔していません。

 この感覚を、どう説明したらいいのか。

 子育ては地獄でした。忍耐の上に忍耐を重ね、言いたい事の全てを胸の内に納め、理不尽な言葉に傷つき、恥をかき、得られる成果はほとんどなく、穴の開いたバケツに水を汲み続けるような子育てでした。

 それでも、ほぼ終わってみると、何かしらが残っている。

 泣き止まない子供を抱きながら、何時間も過ごしたあの地獄が、私には必要だったような気がします。

 必要という言い方はおかしいのですが、他に言葉が見つかりません。あの時間が無ければ私は、人生を、とても舐めてしまったように思います。努力すればなんとかなる、そんな風に、軽く考えてしまっていたように思います。

 人生には、努力したってどうにもならない事のほうが、多いという事を、子育てを通して私は知りました。その理不尽さ。容赦なさ。それが生きるという事。

 そして大事なのは、努力してもどうにもならないと知った上で尚、努力を止めない事なのです。

 努力したってどうにもならないと匙を投げていたら、今、私の目の前に、こういう息子はいません。私が努力したからといって、彼が健常児になったわけではない。相変わらず特性を多々持つ発達障害児です。

 それでも、彼は彼の人生を一生懸命前向きに生きてくれている。それが私を感動させるし、喜びを与えてくれるのです。

 私の努力は、彼を健常児には出来なかったけれど、彼の心を育てる事はできた。そう思います。

 

 母性とは何か。

 母性とは、責任感です。私はそう思います。子供を産むという事は、自分が産んだ命に責任を持つ、という事です。

 責任を持つ、というと、重たく感じるかもしれません。でも、その重さが、人生だと私は思います。重いから苦しい、のではなく、重いからこそ価値がある。

 

 時に人は、「母性神話」という言葉を、揶揄して語ります。いい子ちゃんぶって、とか、偽善者とか、そんなものは存在しない、とか、そんなものに縛られないで、とか。

 本当にそうでしょうか。

 母性は責任感だと私は思っています。誰の為に責任を持つのか。それは、一つの命の為です。世界の平和とか、そんな大きな話ではありません。何億円稼ぐとか、そんなスケールの話でもありません。

 ただ1つの小さな命に対する、責任です。

 それが、神聖でなくて、何が神聖なのでしょうか。

 

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