書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

自分らしく生きると問題が発生するが、それでも由とするか否か

 前回に引き続きまして、その2、「自分らしく生きると悩みが増えるが、それで良い」という考え方について、書いていきたいと思います。

 上記のように仰っている方が、おられたんですよね。

 自分を押し殺して生きるのではなく、自分らしく生きるほうがいい。その過程で、必ず非難される目にあうが、自分らしさを押し通していると、そのうち「あの人はああいう人だ」と周囲のほうが慣れてくれて、何も言われなくなるから。

 という理屈だそうです。

 

 例としては、「ずっと同窓会の幹事をやっていたが、本当はやりたくなかった。とうとうそれを、みんなに言ったところ、『え~、そうなの?』とみんなはガッカリと不満顏だった。でも、がっかりされるのは仕方ない。それでも、『やりたくない』を押し通していれば、そのうち誰も何も言わなくなる」という事だそうです。

 

 これは結局のところ、「みんなが嫌がる事を、誰がするか」問題だと思うのです。

 「同窓会の幹事」しかり。「家事育児介護」しかり。「人が嫌がる仕事(例えばゴミ収集業とか、病院の夜勤とか)」しかり。誰しもがやりたくない事、でも誰かがやらねばならない事は、世の中に沢山あります。

 現時点で、誰かがそれをやってくれているから、暮らしが正常にまわっているわけです。

 もし、「せーの」で、それらをやっている人が、「実はやりたくなかったんだよね」と言って、やらなくなったら。同窓会は開催されなくなり、ゴミは回収されなくなり、家は荒れ放題、食事は作られず、子供もご老人も放置され、夜中の急病でも診察してもらえず。世の中は混沌とした不安に満ちた無秩序状態になります。

  確かに、自分らしく生きられれば楽しいしラクですが、全ての人が、全ての事に対して、それを言い出したら、世の中はまわりません。

 

 別の視点から書くと。

 今まで我慢してそれをやっていた。ある日「もうやりたくない」と言って止めてしまった。最初はみんな文句を言いますが、そのうち諦めて何も言わなくなります。

 誰からも文句が来なくなれば、それでOKなのでしょうか。

 

 今まで我慢してそれをやっていたからこそ、そこに自分の居場所を確保できていたわけです。同窓会の友人達、家族、職場、地域。

 自分が嫌な事を放棄するのは個人の自由ですが、放棄すると、そこにあった自分の居場所も、同時に消滅します。

 誰からも文句を言われなくなる、という事は、そこに自分の居場所がなくなる、という事です。誰からも期待されない、数に入れられない、という事だからです。

 

 また、別の視点で書きますと。

 自分らしくいたいから、言いたい事を言わせてもらう、やりたい事をやらせてもらう。自分が納得出来る事が最優先、自分がスッキリできる事が最優先。

 誰かがスッキリすると、誰かが傷つきます。誰かにとって都合のいい事は、他の人にとっては不都合な事です。誰かが納得できる状況は、他の誰かの不満の上に成り立ちます。

 誰かが100%自分らしく生きる事は、他の誰かの犠牲の上にしか、成り立ちません。

 それでも、「自分らしく生きる」を選択する人は、結局のところ、自分さえよければそれで良い、という考え方をする人で。別にそれでいいんですけども、私には怖くてできないなと思います。

 60年近く生きてきますと、自己中心的な言動をした後に、必ずしっぺ返しをくらう、という経験を、何度も繰り返してきたからです。

 自分らしく生きる事は結構なことですが、それが他人に我慢を強いたり、口を閉じさせたり、他人の犠牲の上に成り立つ事であれば、自分にとって、良い生き方ではないと私は思います。

 自分らしく生きるを押し通すと、人は、少しづつ不幸になっていくのではないでしょうか。まあ、私の個人的な意見ですが。

 自分らしくの「自分」ってそもそも何なんでしょうか。結局、エゴの押し通しになるんじゃないかと、私は思うわけです。別に、我慢ばかりが正解とも思いませんが、自分らしさは、ここぞという時に発揮できればそれでいいと、私は思います。

 ではまた。