書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

きれいに諦められる自分でいたい

 前回の記事の続きのような内容になります。

 当たり前のようなタイトルをつけてしまいましたが、私は、発達障害児の親の心構えとして、何よりもまず「諦める事」が必須だと思うのです。これなくしては、まともな精神で生きていく事すら、難しいと思われます。

 子供が幸せに生きる事、自分が幸せに生きる事を、目指して努力するのは大前提として、でも一方で、そうなれない可能性が高いという事もはっきりと認識し、不幸に落ちても仕方ない、そういう事もいつだってあり得ると覚悟する。ちゃんと生きる事幸せに生きる事が不可能である可能性を常に、把握しておくこと。

 たとえば私の息子は、なんとか希望の大学に通えてはいますが、いつでも脱落する可能性はあり、それはもう、健常者には理解できない些細なきっかけだろうと思われます。「なぜそんな事で?」と思われるような、予測不可能なきっかけで、「もうできない」となる可能性があるのが、発達障害者なのですから。

 息子のやりたい事得意な事で生活の糧を稼げる人生にしてやりたい、そう願ってずっと努力し続けてきましたが、その時々で、「もう駄目だろう」「ここで終わるのだろう」「この子は障害者として生きていくしかないのだろうう」と思える事態に、何度も陥りました。今後もあると考えるのが妥当でしょう。ないはずがないですから。

 やっぱり駄目だった、となった時に、きれいに諦められないと、間違いなく心を病みます。だから、常日頃から、諦める訓練を、自分の心に強い続けなくてはいけません。

 子供に、より良い人生を歩ませてやりたいと願うのは親の常ですが、そうさせてやれなかった時でも、悔やまない事。落ち込まない事。仕方ないとすっぱりきれいに諦める事。これには、前を向いて努力するのの何倍もの力が要ります。

 前を向いて努力する事は容易なのです。自然だから。

 でも、もう無理なのだと諦める事は、とても難しい。不自然だから。

 変な言い方ですけども、障害というのは、人間に、不自然なことをさせるものなのだと思います。障害がなければ、自然に生きていけるのですが。障害があると、障害のせいで、人生が歪んでいく。その歪みを、正しながら直しながら生きているわけですが、正せない直せない歪みが少しづつ蓄積し、ある日もう無理という日がやってくる。それは、何らかの事故で、ある日突然歩けなくなるとか、視力を失うといった事に近いと思います。何故こんな目に?と言ってみたところで詮は無い。歩けない事、目が見えない事は、歴然とした事実で、その状態で生きていくしかないわけです。

 発達障害者が、普通の人生を諦めるのは、歩けない人生を受け入れるとか、目が見えない人生を受け入れるのと、同じ事だと思います。

 その時、じたばたせずに、きれいに諦められる自分でいたいと思います。

 

f:id:oinor-i:20201020171114j:plain