書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

私が、神仏は存在すると信じる理由

 今日から夫の会社は連休になるので、息子と夫は東京へ遊びに行きました。この、男二人の東京旅行は、息子が小学校の頃からのこの時期の恒例行事です。私は、東京にはあまり興味がないので、お留守番。

 ただ、今年は、東京を早めに引き上げ、連休後半は四国に行くので、そこだけ私も参加します。またJRしおかぜに乗れるのが楽しみです。

 というわけで、朝一で夫と息子を東京に送り出しました。今回は、新幹線は「こだま」を利用するそうです。その代わりグリーン車に乗るのだとか。「こだま」を利用する代わりにプラス千円でグリーン車に乗れるという特別プランがあるそうで。時間的には30分余計にかかるそうですが、グリーン車なら楽しいかも。

 電車好きの息子は朝から楽しそうで、ウキウキと上機嫌で出かけて行きました。

 先日私も京都に行ってみて、あまりの閑散ぶりに驚きましたが、東京も出歩いている人は少ないのかな。人が少なければ意外と観光しやすいかもしれません。ただ、マスク手洗いウガイはしつこい程言い聞かせ、頻繁に手を洗うよう使い捨て石鹸とアルコール消毒水をも持たせ、疲れたら休め、とか、無理するな、とか口うるさく言っておきました。

 二人を見送った後、いつも行く神社にお参りし、二人の旅の無事をお願いしてきました。私に出来る事は、ここまでかなあ。どうぞ無事で帰って来ますように。

 さて。

 話は変わるのですが、私は神仏の存在を信じているのですが、信じていない人がいるのは全然構わないのですが、信じていない方がこんな風に書いておられたのを読んで、「そうか~」と思ったので、少しその事について書きます。その方のブログは私は好きで、楽しくいつも拝読しているので、決して批判的な気持ちで読んだわけではありません。

 書いてあったのはこんな感じのことです↓。

祈りなんて自分の心を鎮める効果以外なにもないと思いますよ。この世界はたとえ一粒の麦が地に落ちても一粒万倍に結ぶとは限らない。それどころか多くの「一粒の麦」が自らの意志で地に落ちてもたいがい枯れちまう世界です。淡々と現実を受け入れて死ぬまで生きるにはたしかにしんどい。だから人が何かを信じたり、お役目を確信したり、生まれてきたことに意味を見いだしたがることを否定はしません。たぶん人間ってのはこの世界の無意味さを直観するには弱すぎるのだと思います。その弱さはきっと私の中にもあって人さまを笑えない。 

 そういう意味では何かを信じ祈る人を嘲笑うことはしませんが、少なくとも他者の幸福・健康・勝利を祈るなんて…なんの変化も起こしません。同様に他者の不幸・病苦・敗北を祈る「呪い」にも効果なしです。そもそも、いのる、のろう、元々は同じ語源 「のる(宣る)」、つまり言葉に出して伝えること。または言葉にして定めること。電波をピッピピッピ飛ばして念を送るような話ではないです

 

 なるほどなあ。理にかなった考え方だと思いました。この方が、こういう風にお考えになって生きていかれる事に、私は何一つ意見はありません。それでいいと思う。

 この方の意見は、この方として正しいと思うにも関わらず、一方で私は、神仏の存在を信じているのです。

 何故なのかと言えば、この方と、私とでは、「経験」が違うのだと思います。

 私は、実際に存在している霊能力のある方に、沢山助けて頂いたからです。その方は、先の事が視える人で、人智で考えても絶対に分からない先の事を、いつも教えて下さいました(残念ながらすでにお亡くなりになっています)。

 その方は、私の親族全員の相談役、のような感じの方でした。相談一回につきいくら、とお金を請求するわけではなく、気になる事があれば向こうからお電話下さる時もありました。どうやって生活されていたかというと、この方に元気で長生きしてもらわなければ困る人達が、自発的に御礼を送っていたからです。名だたる病院や企業さんの上の方も多くおられたようです。

 私は、「自称・霊能者」というような人は全く信用していません。ただ、この方の「先のことの予言」は常に当たるので、信じざるを得なかった。

 例えば、私が息子を妊娠してすぐの頃、まだ検査薬でも検査できない初期の初期に電話してこられ「お腹の中で子供が泳いでいるのが見える。十分気を付けて生活しなさい」と言われました(私は前回の妊娠で流産していました)。当時の私は超がつくほどの楽天家で、慎重とはほど遠い生活をしていたので、注意してもらわなかったら、また流産していたと思います。

 また、私の実家が持っている、そこそこまとまった土地を売ろうという事になり、どこに売ればいいかをその方に伺ったところ、「今売ってはいけない」と言われました。その後しばらくして、ある大企業から、倉庫としてその土地を貸して欲しいと申込みがあり、半永久的に、その大企業に、土地を賃貸で貸す事が決まりました。子孫に土地を残す事が出来、かつ、毎月少なくない地代が実家に入る事になりました。

 妊娠にしても、企業からの申込みにしても、何の前触れもなかったのです。当の私達ですら、まったく予測の出来ない事でした。それを、はるか離れた土地に住むその方が「妊娠している」「土地を好条件で貸せる事になる」と予測して教えてくれたわけです。あてずっぽで言うにはリスクがあり過ぎるし、そもそもあてずっぽでは思いつく事ではありません。

 こういう事が、数えきれないほどあり、私は、「世の中には、人智の及ばぬ世界がある」という事を、経験として知りました。

 その方が、どうやって先の事を知るのかといえば、「神様に伺う」のだそうです。また、神様のほうから、教えて下さる事もあるそうです。

 その方がそう言うので、そうなのだろうと思わざるを得ないし、よって私は、神様は本当にいるのだという事を、経験として信じています。というか知っています。

 

 でも、私のように、「そういう人」を知らない方は、神仏などいない、と思うのは当然だし、神仏がいないという前提で、生きていかれるのも当然だと思います。

 

 一方で、私は、神仏はいる、という前提で生きています。神仏はいる、という前提で生きるメリットは沢山ありますが、デメリットはあまり思いつきません(もしかしたらあるのかもしれないけれど、私には思いつきません)。

 神仏はいる、という前提で生きるメリットを挙げるなら。

①前向きに生きる事に対するモチベーションが出来る。

②善意や利他の気持ちを維持するモチベーションが出来る。

③よくない事はしない、という抑止力になる。

④不安が消える。

です。

 ①、②、③を実行することによって、結果的に、自分の人生に対して大きな安心を得る事が出来る感じです。私は大丈夫、という気持ちになれるのです。

 人間は弱いので、ついつい自堕落になったり、人に当たったり、悪意を持ってしまったり、サボったり、親切に出来なかったり、我意を通そうとしたり、してしまいます。

 でも、神仏が存在する、全て見られている、と分かっていたら、良くない事は出来ないし、良い事をしようという気になれるのです。一人なら無理だけれど、見られていると思えば、自分を律する事が出来る。

 これが、私が感じる、「神仏を信じるメリット」です。

 でも、最初にご紹介した方のように、「神仏などいない、祈りなど無意味」と考えて生きて行かれても、何の問題もないとも思います。

 ただ、私はいると信じたほうが、よりラクに生きられる、というだけの事です。私はどこかの宗教に入ったりしないし、神社仏閣に別段お布施などもしないし(してもいいと思うけれども私はしていません)、神社仏閣への参拝も楽しみで行っているだけで、体がしんどくなれば行かなくなるだろうし、絶対行かねばを強迫的に思っているわけでもないし、ただ、自分一人心の中で「神仏はいる」と信じているだけです。

 私が具体的にしている事というのは、心の中で信じている、それだけです。他人に「信じろ」と勧める事すら、したくないです。何かを信じるなどという事は、押し付けられてするものじゃないと思うから。心の中は、一人一人、個人個人、自由です。

 

 なんだか長くなってしまいました。今日はこのへんで。ではでは良い週末を~。

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