「寄らば大樹の陰」という生き方を、私はネガティブに捉えています。
「寄らば大樹の陰」は、「どうせなら、小さい木ではなく、大きい木の下に入ったほうが何かと良い」というような意味で、もともとの意味にネガティブ要素は無いのです。例えば、大企業に就職した人に対して、「寄らば大樹の陰だよね、やっぱり大企業が安心だよ。良かったね」みたいに言ったりします。
少し前に「虎の威を借る狐」を使って記事を書きましたが、こちらの言葉はもともとネガ要素があります。虎の威を借る狐的生き方が、良くないという事は、満場一致で認めるところ。でも「寄らば大樹の陰」には、もともとはネガティブ要素はありません。
にも関わらず、私はこの言葉に、ネガティブなものを感じてしまいます。
今日はその理由を書きたいと思います。
まず思うのは。「寄らば大樹の陰」に甘んじてしまうと(というか、人って、甘んじてしまうでしょう、どうしても)、その人自身の言葉ではなくて、他人の言葉に染まってしまうのではないか、という事です。それも一人じゃなく、何人もの言葉に染まってしまうのではないか。その事により、整合性なく生きていく事になるのではないか、と思うのです。
「寄らば大樹の陰」的生き方というのは、基本的に、誰かの後ろからついていく生き方です。決して自分が先頭を切らない。自分の言葉で語っているようでいて、よくよく聞くと、全部他人の言葉の受け売りで、自分自身のオリジナルな言葉を持たない。
自分オリジナルの言葉じゃないから、その時その時で、微妙に矛盾しているし、全体的に、整合性がない。そして、人から突っ込まれても、説得力のある説明ができない。じゃあ、謝るのか、自分の非を認めるのか、と言えばそれもせず、しらーっと逃げたり、逆キレの筋の通らない低レベルの反撃をしたりする。
「私が嫌だから、嫌なんだ」的な言説も、この手の方には多いです。嫌だー、嫌いだーと不機嫌まき散らしてきておいて、「なぜ?」と聞くと、説明できない。
要は、物事が、自分が思ったようにならなかったり、自分に都合よくいかなかったりすると、八つ当たり気味に、他人に攻撃を始めるけれども、そこには、一切の、整合性がない。
で、言動に、整合性の無い人って、どうしてそうなるんだろう?と考えていて、そうか、そういう人は、自分自身の言葉を持たないからだ、と気が付いたのです。複数の他人の言葉の受け売りを、自分に都合よく「切り貼り」しているから、あちこちでほろこび矛盾が出て来る。
そして、そういう「自分の言葉を持たない人」ってどういう人かと考えていて、ああ、「寄らば大樹な人」だなあと。
自分の頭で考え、故に自分の責任として判断する、という事が、大切だと私は思います。人生は自分の責任である、と考える事で初めて、人は「畏れ」や「謙虚さ」を持てるのではないかと思います。
まるで他人事のように書いていますが、私自身がつい最近まで、無自覚に「寄らば大樹」でした。マジョリティである結婚や出産を選んだのもそのせいです。自分の頭で考えなかった落し前を、今つけさせられているなあと思います。
本当に遅いですけども、今は何事も、自分で一つ一つ考えて進むようにしています。そのおかげで、人生が少しだけ整理されて来たように思います。まだまだ未整理な事ばかりですが、、。
寄らば大樹でラクしてきたツケなので仕方ないです。まあ焦らずやって行きます。