書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

自分に合わない生き方は選択しない

 (後からの付け加えですけれども。今日書く事は、発達障害界隈で、私が見聞きして感じた事を、まとめたものである事を、お断りしておきます)

 とても不思議な考え方があって。「子供が成功するとその親が評価される風潮があるので、親は子供を虐待するのだ(過剰なしつけや教育も虐待)」、というものです。またこれは逆もあって、「子供が失敗するとその親が批判される風潮があるので、親は子供を虐待するのだ(過剰なしつけや教育も虐待)」、というもの。

 何故そうなる? と、正直私には分かりません。

 「子供が成功すると、その親が評価される」これは分かります。でも、「だから、親が子供を過剰にしつけたり教育したりするのだ」と言われると、え?何故?そこに繋がるの?と思います。

 親が、子供を虐待レベルで躾けをする教育をする、のは、許されるわけがないです。「だって、子供が成功すると親が評価されるから」「子供が失敗すると、親が批判されるから」というのは、言い訳にはなりません。なんの言い訳にもならないです。

 自分が評価されたいから(批判されたくないから)、子供を虐待してもOK、なわけないと思うし、そんな事はみんな分かっているのではないでしょうか。

 

 世の中には、歴然と「出来ない子供」は存在します。「出来ない」というのは、反抗的とか、発達が遅いとか、能力が低いとか、素直さに欠けるとか、コミュ力が低いとか、もう様々ありますが、とにかく一言で言えば「親の期待通りの素晴らしさに欠ける」子供です。そういう子は、沢山います。中度の発達障害児だった我が息子は、まさにそのよい例です。

 そういう場合、親は、様々な工夫と忍耐で、少しでも子供がよくなるように日々やっていくわけです。

 もともと「出来のいい子」なら、親の努力は必要ありません。

 でも、もともと「出来の悪い子」の場合、親の努力を必要とします。

 結果的に、「もともと出来のいい子」と、「もともとは出来の悪い子でも親の努力でそこそこよくなった子」とが、同じレベルになったとします。その時、外からは、その子が「もともと出来が良かった」のか、「親の努力でよくなった」のか、それは分かりません。

 ただ、「もともと出来のいい子」の割合はとても少ない事から、一般的に、「よい子(変な言葉ですが便宜上使います)」がいれば、その陰に親の努力を、誰しもが感じ取るわけです。

 それが、冒頭書いた、「子供が成功すると、その親が評価される」に繋がるわけです。成功というのは、別に有名校に入るとか、就職で成功するとか、そういう事だけではなく、人が見て「よい子(便宜上使っています)」と感じられる子、という意味ですが。

 また、この逆もしかりです。

 もともと、「とてつもなく出来の悪い子」というのは少数なので、そこに「とてつもなく悪い子(便宜上使っています)」がいたら、一般的には、「親が手をかけてあげなかったのだな」という事を、人は感じるわけです。その子がもともと、とてつもなく出来の悪い子だったのかもしれないけれども、一般的にはその割合は少ないから、であれば、今目の前にいる「ひどい子(便宜上使っています)」になったのは、親が忍耐に欠ける不適切な育児をしたのだろうなと想像するわけです。

 

 不思議なことに、子育てにおいて努力や忍耐に欠ける人ほど、人からそう思われたくないという気持ちを持っておられるようで、だから「虐待に近い躾や教育」が生れてしまうのだと思います。

 つまり。親自身が必要とされる努力や忍耐をする事なしに、子供を「よい子」にしようとするわけです。

 本来なら、子供に合わせたやり方を工夫したり、親が一旦引いてみる、親が感情的にならない、親が率先して頑張る姿を見せる、愛すべきところなど何もなくても可愛がる、手間暇時間をかけてやるなど、親が様々な努力する事で、子供は少しづつ「よい子」になっていくわけです。

 でも、その努力はしたくない。でも、他人からは「よい親」だと思われたい。または、「悪い親」だとは思われたくない。なので、虐待に近い躾や教育を行って、無理やりにでも子供を「よい子」にしたて上げようとするわけです。要するに、必要な努力なしに、結果だけ出そうとする。「ズル」をするわけです。

 勿論、そういう行為は成功しません。むしろ、逆効果で、子供は傷つき、反抗的になり、悪いほうへ悪いほうへと流れていきます。また、親自身も、自分がズルをしている事は薄々自覚しているので、親自身の自己肯定感も下がります。

 ズルをすると、何もよい事はありません。

 

 もし、子育てに努力出来ないのなら、出来ないで仕方ないと私は思います。ただ、親が努力しない以上、子供は親が期待するレベルの「よい子」には育ちません。上に書いたように、当然、周囲からは「親が努力しなかったのだな」と思われます。事実、努力しなかったのだから、そう思われても仕方ないわけで、そこは諦めるしかないと思います。

 努力しなかったくせに、周囲から「努力しなかったのだな」と思われたくない、というのは、ズルいです。親のそういう「ズルい」気持ちが、子供への虐待に繋がると私は思います。

 親が子育てにおいて必要な努力を出来ないなら、出来ないでいい。周囲から「出来ない親」だと思われるけれど、それは仕方ない、現に、出来ていないのだから。そこは諦めるしかない。出来ない親だからといって、まさか殺されるわけではありませんから、そこはもう、割り切って諦めるしかない。出来ないものは出来ない、でいい。

 一番悪いのは、「出来ない事」ではなく、「ズルい事」です

 親が「出来なくても」、子供はその子の自然な状態より悪くはならないです。親自身は人から「出来ない親」だと思われるでしょうが、それは事実なのだから、甘んじて受け入れるしかありません。親が「出来ない親」評価を甘んじて受け入れる覚悟を決めれば、子供は助かります。なぜなら親が「ズルい」と、それは虐待に近い躾や教育に繋がり、子供は捻じ曲げられていくからです。

 出来ない親でもいいから、ズルい親にだけは、ならないように気を付ける。それが大事だと私は思います。

 

 冒頭に戻りますが。

 「子供の出来が良いと親が褒められる」「子供の出来が悪いと親が批判される」という世間一般の見方があるから、虐待に近い躾や教育を親が行わざるを得ないのだ、という考え方。 「子供の出来」と「親の努力」を、結びつける風潮が無くなれば、虐待に近い躾や教育も無くなるのに、という考え方。

 こういう一連の考え方に、私は強い違和感を覚えます。

 「子供の出来」と「親の努力」は、通常、結びつくものです。世間が勝手に言っているのではなく、ある一部の例外を省き、「子供の出来」と「親の努力」は結びつきます。これは、「風潮」という不確かなものではなく、「事実」です。自分が子供を虐待してしまうのを、世間の「間違った風潮」のせいだとして世間に責任転嫁すれば、気がラクでしょうが。

 「子供の出来」と「親の努力」を、結びつける風潮が無くなれば、虐待に近い躾や教育も無くなるのに。というのは、どう考えてもおかしな考え方だと私は思います。

 確かに、「子供の出来」と「親の努力」は、何の関係もない、という事にしてしまえば、虐待に近い過剰な躾や教育は無くなるかもしれません。何故なら、子供が出来なくても、その親が批判される事はないから。「誰からも責められないなら、子育て手抜きでいい」と考える親御さんは出てくるでしょう。だから、過剰な躾や教育は無くなる一方で、今度は、虐待に近い育児放棄が起こってしまうでしょう。

 「人から責められるから渋々やる」「人から評価されたいから渋々やる」こういう親御さんは、完全に他者目線で生きておられるのだと思います。本来、子育てを頑張るのは、子供をよくしてやりたいという、親自身の自発的な思いが根本にあるべきなのですが、それがない。「人からどう思われるか」が子育ての根本にあれば、子供そっちのけで、「自分が責められないように。自分が褒められるように」、子供を虐待してでも躾よう教育しよう、となるのだと思う。結局のところ、自分のことしか考えられない。

 うん。

 ここまで書いてやっと分かりました。

 私は、自分のことしか考えられない親御さんに、違和感があるのだと思います。そういう人が、何故、人の親になろうとされたのか。そこが一番分からないのだと思う。自分のことしか考えられない事が、悪いと言っているのではありません。ただ、そうなら、一人で生きていくのが一番幸せだと思うのです。なぜ、わざわざ、自分に合わない生き方を選択されたのか、、。何故子供を産もうと思われたのか。私の違和感の根っこはそれだと思います。

 自分に合わない生き方を選択するのは、不幸の始まりだと思います。それは、自分だけでなく、周囲も不幸にするからです。

 自分に合わない生き方だとは、知らずに選択してしまった、というケースもあるかと思います。まさに私がそう。障害児を産むなど、思いもよりもせんでした。障害児が生まれる事がある、というのは一般知識として知っていましたが、自分にそういう事が起こる筈はないと、傲慢に考えていました。

 私はもともと超がつくほどの楽天家で、努力嫌いで、直観と要領で生きていくタイプの人間です。でも、発達障害児を育てるのに、これほど合わない性格はないと思います。私は間違って、自分に合わない生き方を選択してしまったのです。間違って、というか、傲慢さ故に。

 だから、今の私の子育てスタイルは、本来の私の性格とは異なります。慎重に、我慢強く、先の先まで見通して準備して、忍耐と工夫が欠かせません。私には出来ない、と投げ捨てても良かったけれど、そこはもしかしたら、生来の楽天性が活きたのかもしれませんが、「出来るかも」と思ったのです。なので、やり続けております。幸せな子育てとは程遠いですが、達成感はあるし、後悔はありません。それでも、息子のことで人から怒られるし責められました。そのへんは、子育てカテゴリーの過去記事に書いています。精一杯やっても、人から責められることからは逃れられませんでした。最近はさすがに無いですが、小さい頃は酷かったです。「息子さんが出来ないのは、お母さんのせい」は死ぬほど言われました。それでも、やれる事は全部やっているという自負があったから、潰れませんでした。

 だから。自分に合わない生き方を間違って選択してしまったとしても、そこからまた仕切り直して、自分を変える方向に進んでもいいし、無理だお手上げだと方向転換するか、他力に頼るかしてもいいと思います。ただズルさえしなければいいんです。

 でも。出来ることなら。最初から。自分に合わない生き方を選択しないことが、幸せへの最短距離だろうなとは思います。

 長々と失礼しました。