書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

不幸は存在すると踏まえた上で、幸せの量を増やしていけばいいと思う。

 あるカウンセラーさんのブログに、こんな事が書いてありました。「問題のない良い状態だけが、『幸せ』ではない。問題が起こって悩んだり迷ったり悲しんだり苦しんだり腹を立てたり、そういう事が全て『幸せ』なのだ」と。

 う~ん。そうなのですか。達観されているようにも聞こえますが、私には詭弁に感じられました。気になったので、その方の過去記事を少し拝読して感じたのは、この方は、「自分は幸せである」という事を、常に主張したい方なのだなあ、という事でした。今時のスピリチュアルです。

 どんな状態でも、どんな事が起こっても、とにかく最後は「こういう私は幸せなのです」と締めくくっておられる。地震があって被害を受けました、でも私は幸せです。仕事がうまくいきません、でも私は幸せです。成人した子供が金銭的に独立できていません、でも私は幸せです。折り合いの悪い実母と同居しています、でも私は幸せです。人間関係で失敗ばかりします、でも私は幸せです。子供が病気になりました、でも私は幸せです、、、。繰り返し繰り返し。なんかものすごく無理やり感がありました。

 なんで常に「幸せ」でなくては、いけないのでしょうか。どんな人でも、「ああ私って幸せ」と感じる瞬間もあれば、「私は不幸だ」と落ち込む瞬間もあります。何故この方は、自分が不幸である(瞬間もある)という事を、認めようとされないのでしょうか。不幸である(瞬間もある)事を、何故そんなに怖がるのでしょうか。 

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 悲しい事や苦しい事は、やはり人生に少ないほうが、私はいいです。だから、私は、悲しい事や苦しい事は、「不幸」に入れます。「不幸のカテゴリーに入れて、人生で極力少なくしたい。「不幸」を「不幸」だという認識を持つ事で初めて、不幸を減らそうとできるのだと私は思います。

 「幸せ」は「幸せ」、「不幸」は「不幸」と区別して、人生に出来るだけ幸せを増やすようにやっていきたいです。

 

 「幸せ」が何から起こるかと言えば、たまたまの幸運と、自分自身の地道な心がけです。たまたまの幸運は、私達には左右出来ない事です。あくまでたまたま、偶然なので。でも、自分自身の心がけは、自分で増やしていく事ができます。それはつまり、良心に従う行動や、先を考えた行動、です。少ししんどくても良心に従う方を選び、少し大変でも先々の自分にとって良い方を選んで生きていけば、幸せの分量は自然に増えていくと思います。

 一方。

 「不幸」が何から起こるかと言えば、たまたまの不運と、自分自身の怠惰さです。たまたまの不運は、同じく、私達には逃れようがない事です。怠惰さというのは、つまり、良心に背く行動や、先々を考えない行動です。自己中心的な方を選び、今この瞬間気分が良いだけの方を選んでいけば、当然、不幸の分量は増えていくと思います。

 たまたまの幸運や不運は、個人の力ではどうしようもない事なので、そこはもうカウントに入れません。それでも、自分自身が良心に従い先々を考えたものを選択し続けていれば、幸せを増やす事ができ、相対的に不幸を減らす事ができると思います。

 でも、先のカウンセラーさんのように、どんな事も「幸せ」だとしてしまうと、良心に従っても従わなくてもいい、先々の事を考えても考えなくてもいい、という事になります。実際そのカウンセラーさんは、何をしても正解、やりたいようにすればいい、人間のする事に何一つ間違いはない、という説を主張しておられました。

 本当にそうなのでしょうか。人は時に弱く、間違いも起こします。どんな行為も正解だとしてしまうと、間違っても反省すらせずに済ませてしまう事になります。

 

 実際のところ、良心に背く事ばかりしていれば、ペナルティー的な不幸は必ず起こります。これは私の経験上、絶対です。以前にも書いた事がありますが、宇宙の絶対的な存在によるバランス調整で、良心に背く行為、自己中心的で他者を害する行為の量が一定量に達すれば、必ずペナルティーが下されます。そこで態度を改めれば良いですが、それでも改める事ができなければ、波動がどんどん下がっていき、餓鬼の域に落ちてしまいます。こうなるともう、不幸しか起こりません。悲しい事苦しい事辛い事怖い事、しか起こりません。神仏が助けたくても、波動が下がり過ぎると、助けの手も届かないからです。

 また、先々のことは考えず、今やりたい事だけやる、やりたくない事はやらない、という刹那的な生き方をしていると、当然、幸せからは遠ざかっていきます。

 

 「幸せ」の量を増やすには、それ相応の生き方をしなけてはなりません。それは、煩悩を持つ私達にとっては、なかなかハードルの高い生き方だと思います。でも、「幸せになる為にがんばろう」というモチベーションがあるからこそ、頑張れる。煩悩に流される事もあるけれど、流されないようにできるだけ踏ん張る。 

 悲しい事苦しい事も幸せなのだ、としてしまうと、そのモチベーションが持てません。やりたい事をやって、やりたくない事はやらず、好き勝手して、自己中でも、みんな幸せになりますよ、と言われて、その通りにしていたら、悲しい事苦しい事だけどんどん増えていくと思います。

 でも、悲しい事苦しい事も幸せなのだ、と言われたら、文句は言えませんよね。

 だから、私は、先のカウンセラーさんの言葉は、詭弁だと感じたのです。

 私は、幸せと不幸は別物だと思うし、できるだけ幸せになるように生きていたいと思います。それでも、たまたま偶然の不運は避けられませんが、自ら招いた不幸を避けるだけでも、人生の不幸の量は、随分減ると思うし、相対的に、幸せの量が増えるのではないかと思います。

 

 そう言えば過去記事に、こんなものを書いてました。似た内容なので貼っておきます。 

oinor-i.hatenablog.com