書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

虐待なのか。意地悪なのか。

note.mu

 なんだか更新の期間があいてしまいましたが、特に理由はございません。すみません<(_ _)>。

 さて。

 上の記事を読みまして、色々思うところを今日は書きます。

 まず最初に、こういう母親は本当に多いし、この方がされた子育てって、そこまで「毒」なのか?ということ。

 いや、この方が辛かったのは重々分かりますが、こんなお母さん、今でも掃いて捨てるほどいるし、昔ならそれこそ「普通」の範疇だと思う。もちろん、絶対的に母親側が悪いとは思うけれど、「毒親=虐待」認定するほどのひどさとはちょっと思えなかった。

 例えばこの方が、母親を毒親と認定した決定的な出来事は、参観日に母親が弟の教室にだけ行き、自分の教室には来てくれなかった、という事だそうですが、、。私の母だってそんな感じでしたよ。参観日どころか、ピアノの発表会とかでも、私の出番の時には来ていなくて、姉の出番の時だけ見に来たり。服なんかでも、姉とは買いにいくけれど、私とは行かない(私はおさがりだし)。

 母は明らかに姉のほうが好きだったし、姉のほうがかわいかったのだと思います。私は憎らしい子供だったのだと思う。

 それでも。姉だって、本当に自分がしてほしい子育てを、母からしてもらったわけじゃないです。母は、姉がして欲しい事、姉の為になる事、ではなく、母自身がしたい事をしていただけだから。

 例えば大学受験の時。姉は、母から何の助言ももらえなかったと言っていました(勿論私も)。それで、受けた大学全部落ちて、姉は一浪したのですが、その時ですら、母は姉に対して、親身になって将来の事を一緒に考えてなどくれず、姉の将来は予備校任せ。結局、姉は一浪したあげくに何の役にもたたない大学に行く羽目になったのですが、その事が今でも姉を苦しめています。自分が人生で何をすべきかが、姉は今だに分からず迷走しているのです。50代にもなって。

    母は姉を自分がしたいようにかわいがっていたけれど、姉にとって一番大事な将来については、一度も一緒に考えてあげなかった(勿論私に対してもそうです)。母に姉の受験について聞くと「とにかくどこかに受かって欲しかった。受かってくれたらどこでもよかった」と言っています。親としてそんな無責任な、、、と私なんかは思ってしまいますが。母としては、自分が悪いとは一ミリも感じてはいません。「どこかに受かりますようにと祈ったのよ。これが親心よ」と、母はまるで自分の事を、母親の鏡のように言いますが、、。

 いやいやいやいや。違うから。でも、この「違う」という部分を、母にはどうしたって理解できないと思います。自分の将来について、一人で考えられる子供ばかりではない、ということを。自分の将来について誰から根気よく助言や相談やらのサポートを受けないと考えられない子供も多いということを。

 結局のところ、姉は今でも人生に迷っています。自己啓発やスピリチュアルに多大な時間とお金をつぎ込み、ねずみ講擬きに首を突っ込む。もうどうしようもないです。母はもちろん、自分にその責任の一端があるとは思っていません。

 ウチの母は裕福な専業主婦でしたが、上の記事のお母さんはフルタイムの兼業主婦さん。ウチの母より遥かにストレスフルで忙しい毎日だったと思うし、そのはけ口を、娘にロックオンしただけの事だと思う。

 子供を、自分のストレスのはけ口に使う母親って、普通だと私は思います。全然、特別な事じゃないし、それをもってして「毒親」認定というのは、言い過ぎじゃないだろうか。そんな事したら、世の中毒親だらけだと思うのです。

 私が思う本当の毒親というのは、子供を虐待する親です。虐待とは、子供の健康な発育を阻害するレベルにまで放任放置するとか、子供を心身を病ませるレベルにまで暴力暴言をする事を言うと思います。

 とりあえず健康に育っているのなら、虐待とまでは言えないと思います。

 では、上の記事の母親は何のかと言えば、「身勝手で自己中心的な人間」という事なのだと思います。更に付け加えるなら「自分を律する力が弱い人」でもあり、また「自分より弱いものを苛める人間」だとも言えると思います。つまり「意地悪」なのです。

 でも人は、「自己中で、心が弱く、弱い者苛めをするもの」です。それが仏教で言うところの「慢」です。

 子育ても一種の人間関係であり、子供という他者に対して、それも自分より遥かに弱者な他者に対して、どこまで親切になれるか、どこまで親身になれるのか、そこが「慢」を克服するポイントになると思います。

 この世を修行とするなら、生まれた目的、生きている目的というのは、「慢を克服することによって、少しでも自分の霊格を上げること」です。

 最初から、悟りを開いたような完璧な人間などおらず、大抵の人は自分の慢に負けながら生きています。その中でも、少しでも頑張って克服しようと思う人は、子育てにおいてもできるだけ「親切」な子育てをしますし、そういう意識のない人は、子育てにおいても自己中心的になるのだろうと思います。 

 そして。世の中の人間というのは、私も当然含め、自己中心的なわけですから、余程自分を律して歯を食いしばらない限り、自己中心的な子育てに流れてしまうものだと思います。それが普通だと思います。

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 人はみな、慢を克服できず、自己中なものである。だから世の中には、虐待親もいるし、毒親もいるし、ひどく身勝手な親もいる。子供はみんな、大なり小なりしんどい思いをして育ってきているわけです。だからといって、大人になってから、親に対して、いつまでも恨みつらみを言い募ってもいい事ないんじゃないかと私は思います。

 辛い思いをしたのは私だけ、と思うかもしれないけれど、けっこうみんな辛い思いしてますって。言わないだけで。

 そういえば、上沼恵美子さんが小学校入学の時、ランドセルを買ってもらえなかったと仰っていました。お兄さんとお姉さんは革の立派なランドセルを買ってもらったそうですが、末っ子の上沼さんは、段ボールの小さなランドセルもどきしか買ってもらえなかったそうで、雨の日に学校に行ったら、溶けて壊れてしまったと。中の教科書もノートも全部びしょ濡れで使い物にならなくなったと。上沼さんは笑い話にされていました。クラスで、そんなランドセルなのは、上沼さんだけだったそうです。お姉さんは英会話やバレエを習わせてもらっていたそうで、お金のかけてもらえ方に兄弟でものすごい差があったのだそうです。

 でも、後に上沼さんはそのお姉さんとコンビを組んで漫才師でデビューしてバカ売れし、後に一人で売れに売れ、億を稼ぐ大御所になられたわけです。そして、親孝行も沢山されて、母親を沢山旅行にも連れて行き、死に目も見取り、亡くなった後はとても寂しく感じたそうです。

 上沼さんは、兄弟の中で自分だけお金をかけてもらえなかった事について、全然親を恨んでいないのです。「仕方ないわ。末っ子だし」と。

 結局のところ、そういう境地に至れる人が、人生も成功し、幸せになっていくんじゃないかと私は思います。私もそうなりたいと思うのです。

 

 ・・・・少し、上の記事の主旨とはズレてしまいました。戻します。

 上の記事の主旨は「我が子をアダルトチルドレンにしてはいけません」という事だと思います。でも、子供をアダルトチルドレンにしないように育てるには、とても丁寧で親切な子育てをしなくてはいけません。手間暇と心配りと忍耐と自制心が、親には必要になってくる。ものすごく大変です。

 私のように子供が一人ならまだしも、二人以上だと、至難の業じゃないでしょうか。そもそも、子供が複数いたら、どうしたってお気に入りとそうでない方ができるものですし。それを子供に悟られないようにするだけでも、相当大変でしょう。私は、できる自信がなかったので、1人しか産めませんでした。

 たった一人の子供でも、育てるの大変です。しんどいです。だから、私の母が、私と姉という二人の子供を育てた事に、ただそれだけで凄いと思うし、たとえそれが多少雑な子育てだったとしても、仕方ないというか当然だなと思います。もし私が母の時代に、母と同じ環境で、二人の子供を育てたとしたら、きっと母と同じような子育てをしたんじゃないかなあ。

 勿論、自分を律して、自分の慢を克服し、子供に親切な丁寧な子育てを目指すべきだと私も思いますが。煩悩を持つ人間には、なかなか難しいのではないかと、上の記事を読んで思ったのでした。