書くしかできない

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子供を叩くのは、多少ならよいのか。

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  子供への虐待について書かれた、二つの記事を読みました。二つとも「多少、子供を叩くのは良いのでは?(仕方ないのでは?)」という論旨が共通しています。

 「多少は叩いてもいい」その理由として。

 上の記事は、シンプルに「だって、子供って、話しただけじゃ言う事をきかない時があるじゃないですか。話しても言う事を聞かなければ、叩くしかないじゃないですか」と言っておられます。

 下の記事は、色んな論点から書かれていますが、その一つに、「親だって完璧ではない。子供とともに成長している。叩いてしまう事もある。世間が児童相談所を批判すれば、児相は保身から虐待取締りに厳しくなり、少しでも子供を叩いた親は、虐待とみなされる危険がある。それは、子育てで悩んでいる親を追い詰める事になる。多少叩くのは許容されるべき」という論旨があります。

 

 多少叩くのは許容されるべき。

 私はそうは思いません。

 

 上の記事に反論するならば。

 私の子供は6歳頃まで言葉があまり通じませんでした。その上、発達障害児なので問題行動ばかりでした。少なくとも健常児さんの何倍も問題行動があったと思います。

 言葉の通じない問題児であった子供を、私は一度も叩かずに育てました。だから、自分の経験だけからで申し訳ないですが、「話して言う事を聞かなくても、叩かずに育てられる」と知っています。

 叩けば一瞬で、子供は言う事を聞きますから、叩くのは一番ラクな子育て方法です。叩かずに育てるのは、親はとても大変です。大変ですが、可能です。細かい具体的なやり方については、煩雑になるので、後で(もしくは別記事で)書きます。

 

 下の記事に反論するならば。

 今回、小4の女児が虐待で亡くなった件で児相が叩かれているのは、「虐待取締りの甘さ故」ではありません。「女児が『父親に虐待されている』と訴えているのを無視して、父親の元に帰してしまった」点を、批判されています。

 教育委員会は、父親の圧力に負けて、女児の『父親に虐待されている』と訴えたアンケートを、よりにもよってその父親本人に、見せてしまっています。

 児童相談所は、後に女児が「あのアンケートは嘘でした」と書いたものの、「それは父親に無理やり書かされた」と訴えているのに、無視して、虐待はもう終わったと判断して、女児を親元に帰したのです。いったい何故???

 とまれ。児相が世間から叩かれたいるのは、この点です。女児の訴えを何故か無視して親元に帰した点です。

 子供を叩くことは全て虐待だから、少しでも子供を叩く親は十派ひとからげで虐待認定しろ、取り締まれ、と、児相に言っているわけではありません。

 誰がどう見ても、ハッキリと「そこに虐待が歴然として存在している。命にかかわる状況である」場合は、子供を保護してやるべきなのに、何故しない?と聞いているのです。

 その親がハッキリと虐待していると分かっていても、高圧的な態度に出られたら、怖いから子供を返してしまう、のなら、一体誰が、子供の命を救えるのでしょう。

 私の子供は発達障害児ですから、幼児期は児相の療育によくお世話になりました。担当の先生方は、びっくりするような高学歴で高い知識を持たれた人格者ばかりで、子供の扱いも素晴らしく、息子は療育を受けた事で本当に伸びました。だから、私は児相には感謝しています。だから、やみくもに児相を叩きたいわけではありません。

 ただ今回の件については、完全に児相が悪い。児相が女児を見殺しにした、と言われても仕方ないと思います。女児が何も言わなかったのならまだしも、懸命に大人達に助けを求めていたのですから。それを大人達がことごとく無視し、女児の大人への信頼を平気で裏切ってしまったのですから。

 児相は人手不足、業務量オーバーだ、と言うのなら、児相とは別の、虐待専門の機関を作ればいいと私は思います。警察と裁判所と児相の中間のような機関。「虐待有る無し認定機関、兼、虐待児保護施設、兼、加害親教育施設」のようなもの。そこに大量の税金を注ぎ込んで、漏れなく子供を救えるように、また、加害親を教育できるように、したらいいと思います。その機関には、本当に虐待があったのかなかったのかを、客観的に正しく判断する事にも、重点をおくような司法的要素も入れたらいいと思います。

 

 私は、子供を叩く事は、反対です。「多少ならいい」とも思いません。

 なぜならば、先にも書きましたが、子育てにおいて、子供を叩く方法は、効率がいいのです。100の言葉、1000の配慮でも動かせなかった子供を、ただ一度強く叩いただけで、簡単に動かせるのですから。

 「叩く子育て」は、親にとって、とてつもなく「イージー」なのです。

 そして、人間は、悲しいかな「ラク」に流される生き物です。ラクエスカレートするのです。多少ならいい、の多少が、どんどん増えていくのです。弱い親であればあるほど、「叩く事」に依存してしまうのです。ギャンブル依存のように。アルコール依存のように。買い物依存のように。薬物依存のように。一度依存の罠にはまったら、個人の意思の力では、抜け出せないのです。

 「叩く子育て」依存から、抜け出せなくて苦しむのが自分自身であればまだ多少は抜け出そうとしますが、抜け出せなくて苦しむのは、自分ではありません。子供です。抜け出すモチベーションが低いです。まず抜け出せません。子供が大きくなり、もう叩いて育てる事ができないほど成長するまで、これが続くのです。

 

 だから。私は、「多少なら叩いてもいい」とは思いません。叩いて子供が動くのは、それは、躾ではありません。子供は、親の言う事を理解したから動いたわけではありません。ただ、叩かれる事で生存の恐怖を感じ、恐怖から動くだけです。理解からの行動ではなく、恐怖心からの行動です。理解していないので、親には強い不満を抱きます。叩かれる事がたび重なれば、親に対して恨みを抱き、強い復讐心を持つようになります。また、親の行動から、自分のいう通りに相手を動かしたい時は叩けばいい、と学んでしまいます。

 子供を叩くということは、親は、躾をしたつもりでも、実際には、子供のモラル心を歪め、親への復讐心を植え付ける行為なのです。

 

 そもそも、の話ですが、自分が子供だったとして「叩かれて育てて欲しかった」と思う人はいるでしょうか。やみくもに叩かれるのではなく、親には面倒でも、丁寧に理由を説明してもらったり、自分の気持ちを汲んでもらったり、状況を変えてもらったり整えてもらったりして、とにかく、丁寧に対応してもらって、納得させてもらう事で、自分の悪い面を直したいとは思わないでしょうか。

 「とにかくやれ」と叩かれるのではなく。「とにかくやるな」と叩かれるのではなく。

 自分が子供だったらと考えた時に、「多少なら叩かれてもいい」と本当に思うのでしょうか。

 

 言葉が通じない問題児を、叩かずに育てる具体的方法については、別記事に書きたいと思います。