書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

母との電話

 母と電話で話していて、電話を切った後に、少ししんどい気持ちになりました。どうしてしんどくなったのかと言えば、こういう感じだったからです。

 最初は普通に話していて、その時は母は元気が良かったし機嫌も良かったのです。でも、ある事を母に言っておかねばと気づき、私は息子の障害特性の1つを、母に説明したのです。

 かなり面倒というか、聞きようによっては「き〇がい」と思われるような特性です。特に母の世代の人は、精神疾患や障害者を、「き〇がい」と切り捨てがちな時代に生きてきたせいもあって、母は一気に無言になりました。

 そして、私の説明を無言で聞いた後、「はい、分かった」と言って、すぐに電話を切ってしまいました。

 まだ確認したいこともあったのですが、母が一刻も早く電話を切りたいと思っているのが伝わったので、私も食い下がらず、「じゃあね」と言って切りました。

 切った後で、なんとも言えないしんどい気持ちになったんですよね。

 

 私が母の立場なら、娘が子供の障害について説明したら、それがどれほど不快で自分自身を不安にさせるような内容でも、娘を元気づけるし、大丈夫だと保障してやるし、急に無口になって電話をそそくさと切るような事はしないと思います。そんな事をしたら、明らかに「そんなき〇がいを育てているあなたとは関わりたくない」と言っているようなものだから。私なら、娘に対して「大丈夫、大丈夫、気にしなくていいよ」と言ってやるだろうし、その話が終わったら、元気が出るような明るい話題をふって明るい気持ちで電話が終われるようにすると思います。

 でも、母はそういう人ではないんですよね。それは分かっている事で。おそらく母は、人間的な器が小さいのだと思います。私が大きいと言っているわけではないのですが。ただ、母のように器の小さい親に育てられると、自分の苦しみは自分一人でなんとかせねばならないので、自力でなんとかする力は無理やりつけてきたと思います。本来私の器だって小さいんですけど、小さいままでは生きてこれなかったから。

 母は昔から「私を不愉快にさせる話は私に言うな」という姿勢なのです。私や姉が小さい頃からそうでした。だから私は困った事があっても母には言えなかった。風邪をひいても、熱が出ても、視力が下がって黒板が見えなくても、服が破れても。姉はひどい虐めにあって母に言っても無視されたと大人になってから聞きました。何もしてもらえないどころか、母を不快にしたということで冷たくされたり傷つけられるような態度や言葉をぶつけられたりするんです。

 困っているから伝えたのに、伝えた事で更に傷つけられるのであれば、もう何も言わないという選択しかない。

 今回も同じです。母はそろそろ90歳になろうという歳で、十分人生経験も経て来たのに、それでも何も変わっていない。いや、変わって欲しいと思っているわけではないのですが、ああ人間ってどれだけ生きても本質的には何も変わらないんだなと再確認した感じです。

 

 ある意味では、母は器が小さいままで生きてこれて幸せな人だなと思います。

 こうやって突き放された事で一旦落ち込んでも、私はいずれ自力で浮上出来るので。落ち込んだままで精神を病んだりすれば、母は困ると思うのですが、私は母を困らせるような事はないので。私のような強い娘で母は幸せだなと思います。私が母と同じような事を息子に対してやってしまったら、地獄が待ってますから。

 母は自分に無理させずに生きられるし、私は自分に無理させずには生きられない。母は自分を正直で立派だと思っていると思いますが、正直に生きられるってそれだけで幸せなんですよね。私のように、誤魔化したり嘘ついたり先延ばししたり、心に無理させないと物事がまわらない環境もあるので。

 心に無理させずにすむって、幸せですよね。

 母との電話を切って、そんな事を思いました。いつも母と電話した後は、何かしらしんどいので電話するのが嫌なのですが、どうしても話さねばならない用事があったので仕方なかったのです。

 今朝は朝からずっと、「母に電話せねば」と思ってしんどかったので、逃げずに電話した私は偉い、と思っておこう。

 

 それと今気づきましたが、息子は明らかにおかしな事を言う時は、いつもより遙かに私の言動というか私が醸し出す雰囲気に対して神経質になります。ちょっとでも私が、息子を突き放すというか否定するような空気を出さないか、いえ私は勿論絶対そんな言動はしませんが、それでもそんなおかしな事をいつまでも言い続けているのは良くないという気持ちが私にもさすがにあるので、出来るだけ早くその話を打ち切ろうとしてしまう事はあるのです。息子はそうされたくないから、表現難しいですが、あえておかしな事を私に言い、私がそれを200万%受けとり、なんなら一晩中でもその話をしていようね!という姿勢でいるかを確認する。私が200万%受け取り永遠にその話をし続けるよ!という態度でいると分かれば、もうその確認作業はしなくなるのですが、少しでも私が逃げの姿勢をとると、息子は一気に神経質になり、繰り返し繰り返しそのおかしな話を私にぶつけて、私が200万%受け取りずっと話続けるかどうかを確認し続けるですよね。ひどい時にはこれが6時間以上に及んだという過去があります。

 この苦い経験から、私は息子に対してどうふるまえばいいかのテクニックを確立し、息子を安心させる為には私が自分の心に無理をさせ続けねばならない事を学んだわけで。今は息子はそこまで私にからむ事はなくなりました。発達障害の特性は、それがどんな特性であれ、否定して治る事はなく、受容し続ける事でした改善はないのです。受容し続けたからといって改善される保障はないのですが。なんの保障もないのですが。ただ、人から受容されるという事は、誰にとっても心が安らかになる事なので、されないよりはされたほうがいい。

 人を受容する事はとても辛いしんどい作業ですが、人から受容される事はとても嬉しい幸せな事で、これは障害者でも同じなので。

 人が他者からの受容をより強く求める時というのは、自分が正しい時ではなく、逆に自分が間違っていると自分で分かっている時です。自分ですら自分を受容できずに苦しい時にこそ、他者から受容してもらいたいのです。でも、間違っている人を受容するのは本当に苦行です。間違いは間違いとスパッと言えるほうが楽です。駄目なものは駄目とと言えるほうが楽です。無理なものは無理と言えるほうが楽。でも、無理なものを大丈夫と言うのは苦行です。誰かが苦行をすることで、誰かの心が救われる。そういう事だと私は思っています。

 世の中の全ての人が、病気も障害も弱さも愚かさも落ち度も失敗もなく、健康で正しく強く完璧でいられたら、誰も他者からの受容なんか求めないと思います。だって自分が完璧なのを自分が知っているから。

 自分が弱くて間違っていると知っているから不安になる。だから他者から大丈夫だと言ってもらいたい、安心させて欲しい。でも、間違っているのに大丈夫だと言うのは嘘ですから。嘘をつくのは心の重荷になります。自分の利益の為の嘘ならまだしも、他者利益の為に自分が嘘をつかされるのは苦行です。でも、それを人は他者に求める。出来ないからこそ。そういう事かなと思います。

 

 ではではまた。