書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

弛む、という事

 「私はゆるゆると生きているの」とよく口にする、同年代の女性がいる。「私は弛んで生きているの。力んでいないの」と彼女は言う。

 「私はもともと気難しい人間なので、周囲にもそのままありのまま出している。私は冷たいし怖いし、口うるさい。サービス業の人には特に厳しく言う。この年齢になったので、なおさら容赦しないで上からモノを言っている」と、その女性は言い、それが「力んでいない弛んだ生き方だ」と言うのだ。

 彼女は独身で子供もいないが、ペットを飼っている。そのペットが言う事をきかない時は叩くのだそうだ。叩いてしつけている、と。叩いてしつける事が良い事ではないと分かっているが、つい叩いてしまうのだとか。そして、「つい叩いてしまう自分を、私は責めない。私は私を許しているの」と自慢気に言うのだ。「私は自分を許しているから、他人も許せるの」と。でも一方で、他人に厳しく容赦しない、とも言い、それは自分がもともと気難しい性格だからで、その気難しい所を改善しようとは思わないそうだ。そういう、自分の欠点というようなものを、改善しないでありのままの自分で生きる事が、「力まない生き方」なのだそうだ。

 彼女の言の矛盾を突くような書き方になってしまったが、矛盾のない人間などいないので、私の書き方は少し意地悪だったかもしれない。つまり彼女の言いたい事はこういう事なのだと思う。「ありのままの自分で生きる事が、弛んだ生き方。ありのまま、という事は、欠点をも直さないという事。私は、他人に厳しいという自分の欠点を許している。だから、他人が私の気に入らない事をしてきた時、相手に対してキツイ事を言うけれども、心の中では相手の事を許している。相手の欠点も(心の中では)許している。私は相手も自分も許しているので楽に生きられるのだ」。

 彼女の考え方について、そういう考え方もあるのだろうなあと、思った。が、でも、私は同じようには考えないなあ、とも思った。

 私は、「力まないで生きる」という事は、「平々凡々な自分で生きる勇気を持つ」という事ではないかと思っている。

 私はかつて、自分が特別な何か、でありたいと思っていた。何か特別な才能があってそれで認められたり、特別に美しかったり、特別に賢かったり、とにかく何かスペシャルなものを持っている人間でいたかった。だからやらなくてもいい事を山のようにやり、痛い目に遭い、人を傷つけ、自分も苦しんだ。

 この年になってみて、つくづく、自分は特別な所など何もない「平凡な」人間なのだと気づいた。凡人という言葉は、私の為にあるような気がする。私のような自惚れやにとっては、自分が凡人だと認める事は、なかなか苦しい事だ。相当思い切って勇輝を出さないと「私は凡人です」とは思えなかった。そう思ってしまうと、羅針盤を失うような、生きるモチベーションを失くすような、足元が心元なくなりそうな怖さがあった。

 でも「自分が凡人だ」と思ってから、変な力みがなくなった気がするのだ。ありのままの自分で生きる事が「弛んだ生き方」なのだとしたら、ありのままの凡人である自分を認める事で、私は「弛んだ生き方」の方向に向かっているように感じている。

 私の考え方は、先に書いた彼女とは全く異なっている。本当に、考え方というのは、人の数だけある。どんな人生も、その人がそう生きたかったのだからそれで良い。そこに正解不正解はないと思っている。

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