書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

「おじさん仏教」小池龍之介さん

自分の間違いを言い訳や条件付き抜きで正味で認められる人は、いないのかもしれない。

「私は間違って見えるかもしれないけれど、それはこうこうこういう理由があって」とか、「確かに、○○の部分で言えば私は間違っていた(けれどそれ以外は間違っていない)」というような文言なら大抵の人は言えるけれど。

また、嫌味や開き直りのニュアンスで「ああ、そうですよ、私が間違いました。すみませんでしたね。でもそれ、あなたに何の関係があるの?他人のミスつついて面白い?」みたいな言い方なら、間違いを認める事は誰でもできるけれど。

 でも、真正面から何の雑味もなく、「私が間違っていました」とまっすぐ認める事ができる人は、いないな、と思う。人間には、自分の過ちを認める事は不可能なのかもしれないと思う。

 

 小池龍之介さんの「おじさん仏教」という本によると、人の思考は100%脳の自動運転だ、という事だそうだ。こういう説は最近流行っている。自分の思念の流れを意識的に追ってみても、確かにそうだなと思う。脳の中に「私」はいない。

 人の脳は、「快」を求め、「不快」をしりぞけ、「中間」を無視するようにできている。それは大昔の過酷な世界で生きていた人間の祖先にとって、必要なメカニズムだったからで。つまり、生きる事はあまりにも過酷だったから、ドーパミンという快楽物質を脳に分泌させる事で生きるモチベーションを与えていた。これが「快」なわけで、大昔の私達は、単純に、ドーパミン欲しさに過酷な原始世界をなんとか生き続けた。

また、脳は、自分にとって少しでも不利益だと思われることに接すると、ノルアドレナリンという神経伝達物質が分泌されて、いち早く、そして徹底的にそれをしりぞけるように作られていた。ノルアドレナリンは、要は危険を察知するアラームであって、過酷な原始世界では、それを「不快」と認識して徹底的にしりぞけないと、命も危なかった。

そして、「快」と「不快」に敏感に対応する為に、それ以外の要素は全て無視するように脳はプログラムされていた。つまり、「快」でもない「不快」でもない中間な事は全て無視するよう、私達の脳は作られていた。私達はひたすら目新しい「快」を求め、「不快」をしりぞける。

 その時代から世界は随分と変わり、もう、そこまで徹底して「快」と「不快」に敏感に徹底的に対応する必要はないのに、人間の脳のメカニズムは変わっていないから、様々な不都合が起こっているのだと思う。

 私達がすぐにいろんな事に「慣れ」てしまうのは、脳が快と不快の中間を無視するように作られているからで、同じ事はだんだんと新鮮味を失い、すぐに目に入らなくなる。

 新しい研究で、この「中間」を無視せず慣れに流されず、丁寧に意識して見るようにする事で、脳にはセロトニンという穏やかな快楽物質が分泌される事が分かってきたそうだ。

 セロトニンは、朝陽を浴びたり綺麗な景色を見たり、美しい音楽を聞いたり、心地よいマッサージを受けたり、抱き合ったり、かぐわしい香りをかいだり、気持ちよくお風呂に入ったり、一定のテンポで繰り返すごくごく軽い運動をしたり、つまり五感に穏やかに心地よく感じられる事をした時に分泌される物質で、ドーパミンほどの強力な快感は得られないが、穏やかで控えめな快感を得る事ができ、ドーパミンのような中毒性はない。

 このセロトニンが、今まで私達が無視してきた「中間」を、意識して見るようにする事でも、分泌される事が分かってきた。わざわざ朝陽を浴びたり、お風呂に入ったりせずとも、いつもの日々のいつもの繰り返しの一つひとつを、雑に流してしまうのではなく、初めてする事のように丁寧に行ったり、慣れ親しんだものを初めて見るもののように丁寧に見たり、感じるように努める事で、穏やかな快感物質セロトニンが分泌される。

 セロトニンを日常的に分泌できるようになると、ドーパミンを激しく欲する事がなくなり、また、ノルアドレナリンを分泌しずらくなるそうだ。

 

 これが、自分の非を真正面から認める事と、どういう関係があるのか、と言えば。

自分の非を認める事は、まぎれもなく「不快」であり、なんとしてでもその状況は排除せねばならぬ、と脳は動く。他人から非を指摘されると、ノルアドレナリンが大量の脳内に放出され、その危機的状況を排除する為に、脳は自動的に戦闘・攻撃体制になる。原始の過酷な世界においては、ほんの少しの「不快」要素も見逃してしまうと、命の危険にさらされたわけなので、現代の私達も、「不快」をしりぞける行為を全力で行う。

 だから私達は、自分の非をどうしても認められない、という事になるわけだと思う。明らかに自分が間違っていた場合でも。

 でも、セロトニンを日常的に分泌している人なら、他人から非を指摘されて責められたとしても、脳内に、それほど大量にはノルアドレナリンは分泌されない。つまり、それほど戦闘モードにはならない。攻撃したい、反撃したい、自分を否定してきた相手を徹底的に叩き潰せねばならない、という反応は、脳内には起こらない。

 人間関係は驚くほど過密になり、どんな仕事においても他人と一切関わらずにやれるものなどなくなってしまった現代において、自らの非を正面からさらりと認める事ができる「脳」は、うまく生きぬいていく最も優秀な「脳」だと私は感じている。今まで生きてきて、そういう「脳」の出会った事は一度もないが、私自身の「脳」は、そういう「脳」に作り変えていきたいと思っている。つまり、今まで無視してきた「中間」を意識して見ていくようにすることで日常的にセロトニンを分泌する事で、生きていくモチベーションを得る為にドーパミンをさほど必要としない脳に。ノルアドレナリンを分泌しずらい脳に。

 それができたかできていないか、は、誰かに非を指摘された時に間正面からされりと認め謝る事ができるかどうか、で判定できるかもしれない。