書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

人を批判する事について

 人を批判しがちなのが、私の悪癖で、直そうといつも思っています。どういう時に批判したくなるかというと、つじつまの合わない事や矛盾した事を言ったりしたりしている人を見た時です。

 実は今も、盛大に矛盾した人を見てしまい(それで商売されており)、「う、う、批判したい、、、」という気持ちに流されそうになっています。が、「人を批判しない」と決めたので、できません。できない苦しさをまぎらす為に、今日はこれを書いています(情けない、、、)。

 なのでここから先は、私自身に言い聞かせる言葉です。

 批判しても、私には何のメリットもないし、相手は絶対に矛盾を認めないし改めない事は分かっています。相手はその時その時で言う事を変えて、詐欺的に商売されているので、どこかの時点で大きく転ぶ事は間違いないのです(いわゆる宇宙の絶対神のバランス調整で)。

 私が批判してもしなくても、結果、その人は大きく転んで態度を改めねばならなくなるのは分かっているので、言わなくてもいいのです。

 

 自分が批判された時に、冷静に自分の非を認める人は、まずいないと私は思っています。人は批判されても、非を認めず反省もしないものです。自分の事が理解されないのはあくまでも理解しない側の問題であり、自分には何ら問題はないと思うのです。

 自分はそんな風には思わない、と思っていても、いざ批判されてみると、頭の回路がそうなってしまうのです。それが普通だと思います。多分、私もそうでしょう。

 だからこそ、人を批判する事には、何の意味もない。ただ、自分に実害が及んでいる場合は、批判というよりも抗議という形で、相手と戦わねばなりませんが。

 

 少し話が変わりますが、実害が及んだケースについて少し書きます。

 先日、芸人の友近さんの番組をたまたま観ていて、印象的な発言があったのです。

 友近さんの後輩芸人さんが、あるディレクターさんからパワハラ(セクハラ)を受けていたと、友近さんに話したそうです。後輩芸人さんは、文句を言っても揉み消されるだけだから泣き寝入りしていると。それを聞いた友近さんは、「私が(テレビ)局に言ってあげる」と言ったそう。後輩芸人さんは、友近さんに迷惑がかかるから止めてくれ、と言ったのだけれど、友近さんは「私はそんな次元で仕事してないから大丈夫」と言って、そのパワハラ(セクハラ)ディレクターの件を、局に通報したのだそうです。結果、そのディレクターは局からの処分を受ける事になったのだとか。

 人を批判する事は無意味ですが、実害があれば、やぶさかではない、という事です。友近さんに直接害があったわけではありませんが、後輩芸人さんに実害があり、友近さんはその代理人として、某ディレクターを批判したわけです。

 こういう場合は、批判しても良いケースだと私は思います。

 ただ。某ディレクター自身は、友近さんから批判されても、自分が悪いとは一ミリも感じてはいないだろうと思います。「自分は悪くない、みんなやってる、こんなのテレビ局の常識だ、自分が大会社のディレクターだから、芸人風情が嫉妬して逆恨みしてきたのだろう、いい迷惑だ」ぐらいなもんです。

 処分の内容によっては、某氏から、友近さんが逆に恨まれる危険もありますが、友近さんほどの人物となると、一ディレクターの逆恨みなど怖くないのでしょう。

 今書いていて気が付きましたが、批判されても、非を認めない人の中には、嫉妬からの逆恨みだと決めつける人もいます。結構多い気がします。でも、上の例を見ても分かるように、批判=嫉妬心、とは限らないわけで。正統な批判もあるわけで。それを認めない、認める事ができない、というのは、私達の脳はなんと脆弱にできているのだろうと思わずにはいられません。

 

 今思いましたけれども、そもそも私自身、人様を批判できるようなご立派な人間では、ありません。誰かが矛盾した事を言ったからといって、その人を批判したいと感じていますが、私自身、今まで一度も矛盾した事を言わずに生きてきたのでしょうか(そんなわけないです。沢山、矛盾した事を言ってきました)。ただ私は、詐欺的な仕事はした事はありませんが、それは私がそもそも、働く必要がないからで。もし、生きていく為にどうしても働かねばならず、手に職もなくせっぱつまったら、詐欺的仕事をしていたかもしれません。だから誰かが、生きる為に詐欺的仕事をしているからといって、私に批判する権利は無い気がしてきました。

 ブログを書くと、考えが整理できて助かります。考えが整理できると、心も落ち着きます。

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 気持ちが晴れました。