書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「自分の中からの声を聞く」という事

 他人の目を気にするのではなく、常識や世間の暗黙の了解に縛られるのでもなく、自分の本当の気持ちにだけ、従う事が大事。

 そういう発言をたまに耳にします。

 他人がどう言おうと、自分が思う事を貫けばいい、みたいな。

 神様は自分の中にいるんだ、とか、他人の言う事を信じて自分の中からの声を無視しちゃいけない、とか。

 まあ、バリエーションは色々ありますが。

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 私はそういう時に、「自分、なんて無いのにな」と思います。

 便宜上、「自分」と呼んでいるけれども、脳科学を突き詰めて見れば、結局のところ、脳の電気信号のやり取りなだけであって、それはほとんどが「自動制御」になっているので、「自分」というような確固とした独立したモノがあるわけではない。

 「自分が考える事」なんて言う時の「自分」なんて、本当は「その時の環境から受け取った刺激が脳に伝わり、その刺激を受けた脳の各モジュールの電気信号のやり取り」というだけの事で。それはほぼオートメーション化されていて、誰かが(自分という存在が)、制御しているわけではない

 そういう事を思います。

 また。

 他人を無視しろ、自分の中からの声だけを信じろ、というのは、これまた乱暴な話であるなあ、とも思います。

 例えば、小さな子供を放っておいたら、下に落ちているモノを何でも食べてしまいます。「下に落ちているものを食べてはいけないよ」と誰かが教えてあげるから、子供はそれをしなくなるだけのことであって、子供自身の中からの声は「下に落ちているモノを食べろ」と子供に告げているのです。

 もし、子供が、自分が聞きたくない他人の声を無視して、自分の中からの声だけを信じたら、早晩、死んでしまうでしょう

 大人は子供ではないから、自分が聞きたくない他人の声は無視してもいい、という理屈もあるかもしれないけれど、本当にそうなんだろうか。

 「けっして完璧ではない、何もかもを分かっているわけではない、知らない事もある」という意味でいえば、大人も子供も同じではないだろうか。

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 「モノを考える媒体としての自分」なんてものは、存在しない、「自分の考えること」それは単なる脳の自動運転だから、と私は思います。

 でも、私と他者を分けるものは勿論存在していて、それは、「魂」です。

 けれども、「魂」は、「考え」ません。私達は普段は、その存在すら意識していません。「これが私の魂です」と、言葉で説明できるものでは、ありません。「魂」は、見えない世界に属するものだからです。言葉(考え)というものは、見える世界に属するものなので、それで魂を説明する事はできないのです

 それでも、無理やりこの「見える世界」にいる私の状態で、「見えない世界」に属する私の魂を感じるとしたら、例えば、夕日を見てわけもなく涙が出る、というような時に、感じる事ができると思います。

 涙が出る説明できる合理的理由など何一つないのに、ふいに涙が出る時、魂が感動していて器である私の体を使って涙を出したのだと思います。

 また例えば、明らかに自分に損な事をして誰かを助けた時、その相手にもそれを知られていなくて、当然感謝などされなくても、自分の心がとてもあたたかくなる時に、私は魂の存在を、感じる事ができます。

 嬉しくなるような合理的理由など何一つないのに、心が喜んでいるようにあたたかくなるのは、魂が喜んでいるからで、その嬉しさが器である私に伝わったのだと思うのです。

 「自分」と呼べるものは、「魂」だけであって、魂は「言葉」でも思いでも考えでも声でもない、という事。「自分の中からの声を聞く」という行為は、常に止まらず自動運転している脳の、その一瞬の電子信号を切り取っただけの事。だから、「自分のなかからの声」だけに従って行動していると、単に脳の自動運転に振り回されるだけになり、危険だなと思います。

 脳は、その場その場の「つじつま合わせ」はできても、その器である人間を、良い方向に導くというような行為は、できないからです。

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