書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

苦手な人を気にしない方法を考えてみた

 今日はとってもいいお天気で、日差しは強いけど日陰は涼しいです。やっとこさ秋。洗濯物がよく乾きます。リビングに座って、ベランダのた~くさんの洗濯物が、風に揺れているのを見るのが大好きです。最近、洋服の断捨離をやったので、手持ち服が全部「好きな服」になった事も大きいです。好きな服ばかりが風に揺れている様が気持ちいいです。

 さて。

 今日は、苦手な人を気にならなくするにはどうしたらいいのか、について考えていました。

 自分と合わない人、というのは、絶対にいます。私はそんな風には考えないなあ、そんな風には言わないなあ、という違和感を感じる人。気にしなければ済む話なのに、気になる。気に触る。

 それが高じると、ブログに吐き出して気を静めるのですが、何でもかんでもブログに書くわけにもいかないし。かといって、気になっているのに無理やり忘れるのは困難だし。

 どうしたらいいのかなあ、と思っていまして、ふと、思いつきました。

 神様って(神社とか山の、という意味です)、人間に対して、よい悪いのジャッジをされない。ましてや悪い人に罰を与えたりもしない。よい人間は「助けてやろう」と思って下さるけれど、よくない人間を見ても、そのままスルーというか、視界にすら入らないからです。

 なんせ、人間は多いですから。人間がごちゃっと集団でいる中で、神様の波動に近い人間、霊格の高い人間だけが神様の目に入るのです。つまり、明らかによい人間、魂がキラキラ光っている人間だけが、神様には見えて、「助けてやろう、救い出してやろう」と思って頂けるわけです。

 波動の低い人間は、そもそも神様の目には入らない。波動が違い過ぎるので、その人の姿も声も神様には届かないのです。

 自分を神様の境地に見たてるのは、おそろしいほど驕(おご)り高ぶった行為だとは思いますが、承知の上でやるとしたら、そういう神様の境地になればいいのではないか、と思ったのです。

 苦手な人を気にしないコツは、その人の姿が目に入っても、その人の声が耳に入っても、自分には知覚できない届かない、とすればいいのではないか?と。

 何故そんな事をする?何故そんな事を言う?と思うのではなく、そもそもしている事も言っている事も、知覚しない。見えていても聞こえていても、心でスルーする。

 そう。単純に言えばスルー力なのだけれど、一旦心に入れてから流すのではなく、そもそも心に入れない。入れる前にはじく。そんな感じ。

 ものすごく傲慢な考え方だと思うけれど、沢山の人の中で生きていれば苦手な人も一定数いるのは当然で、「ああ、合わない、しんどい」と悩むよりは、傲慢でも何でも、悩まずにすむ方法を、やってみたほうがいいんじゃないかと思うのです。

 とりあえず。

 いわゆるスルー力。進化系スルー力とでもいうべきか。それほど大袈裟なものでもないかな。やってみます。

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