あまり普段、幸せだ不幸だと、そういうたぐいの事は考えないのですが、今日はふと、少し考えてみようかと思いました。
他人と比べてどうか、というのは分からないので、あくまでも主観的な認識なのですが。
幸せや不幸の基準に何があるのか分かりませんが、経済・健康・心の平安、の3つが、私としては、基準かなと思います。で、私自身は、
経済的には、不満はありません。
健康面については、アラフィフという年齢を考えると、健康なほうかなと思います。特に今、何かで体が辛いという事もないし、病院にも通っていません。飲んでいる薬もありません。
心が常に平安どうかについては、平安といえば嘘になります。平安な時もあるし、そうでもない時もある。私の場合、やはりポイントはここなんだな、と再認識。
心が常に平安というわけではない私は、もしかしたら不幸なのかもしれない、と自覚してみます。まず、そこを自分で認めてみる。無理して「私、幸せです」とは思おうとしない、というか。
今までは、別に無理していたわけでもないのですが、あえて、自分は不幸なのだ、とは思っていなかったんですよね。
でも、私は不幸かもしれない。そこをスタートにしてみようかな、と今日、ふと思いました。
何故不幸なのか、とか、じゃあどうしたら幸せになるのか、とか、そういう建設的な方向に考えを進めるのではなく、
「私は不幸である」という実情を認めるだけなのですが。不幸であっても生きている、という事を、認めるだけ。不幸であっても人生である、と。不幸な人生を生きている、と認めるだけ。
今までも不幸だったのかもしれないし、今も不幸なのかもしれないし、今後もずっと不幸なのかもしれない。私の人生って、そうなのかもしれない。不幸かもしれない、というのが、私の人生の標準設定なのかもしれない。
それでいいのかも、と。不幸でいいのかも、と。しゃかりきに幸せになろうとしなくてもいいのかも、と。
「足るを知る」という言葉がお好きな方などからは、「健康でお金にも困っていないのだったら、それだけでも感謝しないと。今あるものに感謝できたら、幸せになれるよ」的な事を言われるかもしれないのですが、そういう事を言っているのではないのです。
いやもちろん、私は今あるものに感謝もしているし、「私は心に平安がないから不幸だ。私の心を平安にしないと。心の平安が不足している!」と騒いでいるわけではないのです。むしろ逆で、心に平安がない事について、それでもいいのかも、と思っているのです。
私の心は、常に平安というわけじゃないなあ、と。
で、でも、平安ではない時があるから、不幸といえば不幸かもしれないし、それは今までもそうだったし、これからもそうなんだろうな、と。
私は不幸かもしれないけれど、少なくとも、誰かを不幸にはしていないし、誰かを幸せにする一助は少しだけ担っているとも言えるから、まあいいかな、と。
不幸かもしれない、を自覚したら、逆に心が平安になる気がしました。
桜井識子さんのご著書に「幸せの定義」が書いてあって、「自分が心底うきうきと喜べる何か、しみじみと心が癒される何か、その「何か」が突出していると感じた時に、人は幸せを実感する。その何かは人によって違う。その何かが判明したら、その他のことは幸・不幸の判断材料にはしない事」とありました。
桜井さんの考え方を踏襲するなら、不幸についてはもう、考える必要はない、という事ですね。不幸だろうが何だろうが、自分にとっての「何か」が突出していれば、幸せなんだ、という事です。
私にとっての「何か」は、多分、読書だと思います。本が読める限り、私は幸せなんだなあと思います。矛盾しているようですが、私は不幸であるかもしれない、と自覚する事で心の平安を得た上で、読書に没頭できる時間に幸せを感じればいいのだなあと思います。
桜井さんはこのことを、白山の神様に伺ったそうです。白山も一度、登ってみたいなあと思います。