書くしかできない

過ぎていく日々を書き留めています

自分の周囲を美しい世界にしたい

 ぼんやりした事を書きます。思いつくままに書き足しているので、最初にアップした記事から少し分量増えてます。

 世界は美しい、けれど、日常は煩わしい。だから人は家から出て、旅に向かうのだと思います。それは正しい行動。

 でも、今自分が生きているこの日常も、美しい世界にしたい、と私は思う。いや、多分、みんながそう思っていると思う。でも、その為には、自分で自分を鼓舞する力が必要になってくる。

 家の中をきれいに整える事、埃を取り、片付け、空気を入れ替え、磨く。口に出す言葉を、聞いていて心地よいものにする事。表情や所作を見ていて心地よいものにする事。

 それらを、毎日毎日続ける事。今日だけ、ではなく。明日から、でもなく。今から死ぬまでずっと続ける事。それが今自分が生きているこの日常を、美しい世界にする唯一の方法だと思うのです。

 終わりも完成も到達地点もない、誰にも認められもせず褒められもしないことですが。

 それでもやり続ければ、自分をとりまく日常ですら、旅先のように美しい世界になるはず。

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  自分のお家の掃除は日常レベルからダスキンさんにお任せしている方が、「人々を救いたい」という理由で東南アジアの貧しい地区に行かれ、そこでの人々の素朴な生活を「美しい。これぞ理想的な生活」と褒めたたえておられました。水しか使えないお風呂や、掃除機を使えない掃除や、ガスが使えない炭火での調理や、川での洗濯や、舗装されていない赤土の道や、そういうあれやこれやを、「とても素敵、美しい」と絶賛しておられました。

 なんだか少しだけ違和感。

 今の日本の便利な環境下ですら、生活にまつわる雑事を敬遠する人が、昔の不便な日本のような環境の国での生活を、「美しい」と言ってしまうことに。

 何か違うよね。何が違うんだろうか。言葉にするのが難しい。

 その人は既婚女性なのですが、子育てを敬遠して子供は作らなかったのですが、その貧しい国で特に子供達を助けたい、と出かけられたそうです。

 自分は子供はいらない。でも、他人の子供は助けたい。

 とても素晴らしい事なのだけれども、やはり同じ違和感を感じてしまう。感じてしまう私がおかしいのか。

 でも、わざわざ遠い外国に行かなくても、その人の近所にも、子育てで困っている人は沢山いると思う。子育て助けて欲しい、一時間でいいから子供を見てて欲しい、誰かお願い助けて、と切望している人。私がそうだったから。

 私の近所は、今はほぼボランティアのヘルパーさん制度が出来て、大分子育て環境が改善されました。子育てを助けてあげるとお母さんが少しだけラクになれて、ラクになれたお母さんは、子供に対して優しくなれる。だから、ヘルパーさんは、お母さんを助けているようで、実はそうじゃなく、子供を救っているのだと、私は思います。そういうヘルパーさんは、でも、誰かの子育てを助けに行く日常を、特別な事だとも偉い事だとも思っていません。自分を立派だとも思っていない。でも私は、遠い外国の子供を助けに行く人よりも、近所の子育てを細々と助ける事のほうが、立派な気がしてしょうがないです。

 私はやはり、自分の目の前にある、自分の手の届く周囲を、美しい世界にしたい、と思っているんですよね。人それぞれ、感覚は異なるのだろうなあ。

 まあいずれにしても、どう生きるかなんてのは、その人その人の自由であって、何でもアリなので良いのです。

 私にとっては、遠くの世界を美しくするよりも、自分の近くを美しくするほうが、難しい事なので、できたら難しいほうをやっていこう、と思っています。

 よく、「どう生きるか」というような事が言われますが、私は、魂ファーストな人間なので、「どう生きるか」よりも、「どう自分の魂を作り上げていくか」を重要視しています。苦手な事ばかりしていたら魂が磨かれるか、と言えば、一概にそうは言えないけれど、安易な方、やりやすい方ばかり選んでいては、磨かれないという事は言えると思うのです。

 どんな風に生きたって、死んだら終わりなんだけれど、魂だけは残るので、大事なの「生きた軌跡」ではなく、「魂」のほうだと思っていて、魂をカッコよく(?)していける方向に、生きていけたらいいなあと思っている私です。そういう意味では、私は、とことん「自己中心的」なのかもしれません。

 最初にも書きましたが、この記事、思いつくままで書き足しているので、最初の頃に読んでスター下さった方も、書き足した部分には共感できないからスター消したい!押すんじゃなかった、と思われるかも。。。ごめんなさい。私、時々、こういう感じで、追加でどんどん書き足す事あります。