書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

神仏を信じる、という事は心ひとつだけ。

 前回、神仏は罰を与えない、と書きました。実際に、罰があたったように見える現象は(あと、罰ではないのに災害などに巻き込まれる事)も、宇宙(神)の仕組みによって歪みを調節される過程で起るのだと思う、とも書きました。

 ただ、自分に起ってくる「不運」「不幸」が全て、宇宙(神)の歪み調節によるものか、と言えば、そうではない、と私は思っています。(私は、と書いていますが、前回に引き続き、桜井識子さんの著書からのご意見も引用しています。どれが桜井さんのご意見で、どれが私の意見なのか、を細かく指摘するのは煩雑になるので省きますが、基本的に同じ考え方をしているので、問題ないかと思っています。)

 自分に起ってくる「不運・不幸」は、低い波動のモノの影響である、場合もあると思います。

 世の中には、目に見えない存在があり、それの善なるものが前回書いた「神社の神様たち」「寺院の仏様たち」主に2つで、これらは「高い波動のもの」となります。あと、善でも悪でもないニュートラルな存在である「宇宙(神)」もあり、前回はこの3つについて書きました。

 世の中は陰陽のバランスで成り立っているので、善なるものがあれば、悪なるものも存在するのが道理です。この、目に見えない悪なる存在を総称すれば、「低い波動のモノたち」という事になります。

 ここで、波動について書きます。

 人はものを考える時、脳を動かします。脳は波動を出して動いています。これは脳波をはかる事で脳の動きを知る事ができる事からも分かります。脳の動き、つまり人の思念は、ですから波動、と言いかえる事もできるのです。そしてこの波動(思念)には、「高い波動」と「低い波動」が存在し、高い波動は高い波動の存在と呼応し、低い波動は低い波動の存在と呼応します。

 つまり、高い波動というのは、「高い波動を持つ存在」に近い思念の形である、と考える事ができます。つまり、その思念が、神仏の思念に近ければ近いほど、高い波動だと言えるわけです。

 逆に、低い波動というのは、だから、その思念が、神仏の思念から遠いもの、と言えるわけです。遠ければ遠いほど、より低いわけです。人を裏切る、傷つける、羨む、貶める、恨む、暗い気分に浸る、自責や後悔ばかりに耽溺する、、、などなど、具体的に挙げればきりがないですが、神仏から遠いそういう思念が「低い波動」になります。

 「低い波動のモノたち」というのが、具体的にどういう存在なのか、といえば、例えば、「地獄鬼(この言葉は不適切なのですが、便宜上使います。神仏が人間を助ける存在であるのに対し、地獄鬼は人間を害する存在です)」、「恨みや後悔の念故に成仏できない魂」などです。

 こういうモノたちは、低い波動を持っているので、自分が高い波動をキープしていれば、呼応する事がなく、害を受けません。でも、自分が低い波動を出してしまうと、こういうモノ達に呼応し、引き寄せ、とり付かれてしまいます。彼等は、人間を害する存在なので、とり付かれると、「不幸・不運」に見舞われます。

 「低い波動のモノ達」にとり付かれても、神社でお祓いしてもらうなどして祓う事ができますが、最初からとり付かれないに越した事はありませんから、私はできるだけ、低い波動に浸らないように、高い波動の思念をキープできるように、努力しています。

 できるだけ「悪い思い」に浸らないように気を付け、普段からニュートラルでいるように気を付けています。そして、ごくたまにですが余力がある時は、人を助ける事も心がけています(ごくたまに、です、、、)。でも、なによりもまず自分が思念的に堕ちない事が先決なので、まずはニュートラルを心がけています。波動が高くなれば神仏に近づけるわけですが、それができなくても、低くさえなければ、害される怖れはないからです。

 結局のところ、神仏を信じる、という事は、自分を守る、という事に近いのではないかと、私は思っています。私には霊感はないので、神仏を見たりはできないので、いるかいないかは分かりません。でも、極論、いなくても構わない、と思っています。神仏の存在を信じる事で、私が悪くなる事はないからです。

 また、わざわざ口に出して言ったり尋ねたりはしませんが、縁があって付き合う人は、神仏を信じている人だと安心できます。そういう人は、見えないところで人を裏切ったり傷つけたりしない、と安心できるからです。神仏を信じるという事は、人が見ていようが見ていまいが、悪いことはしない、という心のストッパーになるのです。つまり、信頼できる、という事です。

 世の中のほとんどのものはお金で買えます(健康も、正義すら、お金で買えます)が、「他人からの信頼」だけは、お金では買えません。「お金をあげるから、私を信頼して」と言われても、不可能です。ですが、神仏を信じて生きていると、知らず知らずのうちに「他人からの信頼」を、得ている事に気づきます。

 神仏を信じる、という事は、何かの宗教に入る、という事ではありません。神社に通うとか、寺院に日参する、という事でもありません。ただ、自分の心の中で、「神仏を信じる」と決める、だけです。ただ、自分一人で、そう決めるだけです。誰にも言う必要はないし、特別に何かをする必要もないと私は思っています。ただ、心一つです。

 

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