書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

ああ、怖かった。

 (*途中、気持ちの悪い描写があります。閲覧ご注意ください)

 先日の朝、マンションの南側のリビングで、一人朝食の後片付けをしていたら、北側の部屋からドサッという大きな物音がした。

 家には私しかいない。え?何?と一瞬思い、怖すぎて聞かなかった事にしようかと思ったが、いやいや見に行かねば、と洗い物用のビニール手袋をおもむろに外した。恐る恐る廊下を進む。すると、北側の部屋からカアー、カアー、という鳴き声が聞こえた。大きな鳴き声だ。すぐそこにいる。生々しい。

 え?カラス?え?家に?え?え?

 私はカラスが怖い。鳥はわりと何でも怖いが、カラスが一番怖い。大きいし、黒いし、気味が悪い。感情のない目も怖い。それが家の中に?ゾゾゾゾー。

 勇気を振り絞って、北側の部屋を覗く。見える範囲には何もいない。でも、ドサっという音と共に、更にボリュームの増した鳴き声が。カアー、カアー。いやだ、もう。気持ち悪すぎる。見たくない、見たくない、と思いながら、部屋に一歩踏み入った。体中、さむイボがたっている。部屋に入った瞬間、目を疑った。

 私の目の前に、黒い大きなカラスがいた。ガラスのような丸い目がこちらを見ている。尖った嘴。私、硬直。

 いや、正確には、ガラス窓の向こうのベランダにカラスがいたのだ。北側のその部屋には、二枚の掃き出し窓があり、小さ目のベランダがついている。そのベランダの左隅に園芸用品のビニールが、右隅にエアコンの室外機が置いてある。

 黒い大きなカラスが一羽、その室外機の上に乗って、バタバタしている。バタバタしながら、カアーカアーと鳴き続けている。掃き出し窓は右側が開いていて、カラスの羽が網戸を通してこちら側に出ている。カラスが動くたびに、網戸ががたがたし、今にも破れそうだ。

 一気にさむイボが頭からつま先まで広がった。

 よく見ると、カラスは明らかに病気で、羽も荒れていて嘴の横から変な液が滲んでいる。体の平衡バランスも悪い。ああ、それだけではない。ベランダの先の空中に、更に二羽のカラスがいて、こちらを見ながらしきりに鳴き交わしながら空中旋回を続けている。ベランダにいるカラスの仲間か。

 カアーカアーカアーカアーカアー、大音量。耳をふさぎたい。

 と、室外機のカラスがパッと動いて、ベランダの手すりに飛び乗った。しかし、うちのベランダの手すりは、鳥がとまれないように、特殊な加工がされている。なので、とまろうとしたがとまれず、次の瞬間、ドサッという音と共に、そのカラスは手すりからベランダの床に落ちた。さっき聞いた、ドサッという音は、これだったのか。ベランダの床に落ち、床の上でバサバサと羽を動かし立ち上がろうとするがうまくいかない。感情のない丸い目がこちらを見て動いている。嘴の横から、オレンジ色の液体が垂れている。何なの、何なの、病気なの?私とそれの間にあるのは、頼りない網戸一枚。大きな嘴がひっかかっただけで、一気に破れるだろう。やめて、やめて。

 しかしカラスがこんなに大きいとは思ってもみなかった。猫ぐらいだろうと思っていたが、至近距離に近づかれると、猫より遥かに大きい。体勢を立て直そうと羽を広げてバタついているので、余計に大きく見える。柴犬くらいはあるだろうか。しかも野生だ。都会で野生の生き物に出くわす恐怖。ペットではないのだ。人間におもねったりしない。何を考えているのか全く分からない。まともな感情があるのかどうかも分からない。次の行動の予測がつかない。

 しかも私の原始脳のどこかで、カラスに対する根深い恐怖がある。ゴキブリに対する恐怖と似ている。理屈で言えばこちらが強いと分かっているが、それでも怖い。怖いというか気持ちが悪い。気色が悪い。近くに来ないでほしい。こちらから近づくなんてもってのほか。それでも、近づかないわけにはいかない。網戸が破られる前に、窓を閉めないと。

 私は全ての勇気を振り絞って、掃き出し窓に近づいた。カラスとの距離10センチ。吐きそう。持てる気力を総動員して、ゆっくりガラス窓を閉めた。窓のすぐ外でカラスが動く。ああ、気持ち悪い。早く、早く、閉めたい。早く。窓を閉めて鍵をかけた時点で、一瞬で後ろに飛びのいた。よし、閉めた。少しだけ気持ちが落ち着いた。とにかく、とにかく、家の中に入ってこられる事態だけは防いだ。しかし、窓のすぐ外では、ガラスに羽をこすりつけるようにして、カラスがバタついている。そして、ベランダのすぐ外の空中では、二羽の仲間のカラス達が、ずっと旋回しながら、騒いでいる。

 異様だった。カラスの声というのは、どうしてこう不吉さをもたらすのか。天気のいい午前中なのに、カアーカアーという声がこだましているせいで、八つ墓村にでもいるかのようだ。空が暗くなっていくようだ。

 あ、と思ったら、カラスが大量の白い液状の糞をした。止めてー!と悲鳴を上げそうになった。よく見たら、ベランダのあちこちに白い液が垂れている。ああ。。最悪。泣きそう。

 恐怖、気持ち悪さ、不気味さ、なんなんだこの状況は!と思った。とにかくどっか行って。頼むからウチのベランダで死んじゃったりしないで。カラスが死んだ家なんかに住めない。お願い、お願い、どっか行って。私はカラスを凝視しながら、必死で祈った。と、壁際の本棚に飾ってある亡くなった親族達の写真が目に入った。お願いします。カラスをどこかにやって下さい。お願いします。写真に祈った。急に怖さが消えて力が湧いてきた。

 と、またしても、カラスが飛び上がり、ベランダの手すりに掴まった。カラスは今度は落ちる事なく、ゆらゆらしながらもなんとか踏みとどまり、次の瞬間、空中に飛び立った。そして、少し離れた所にあるビルの外側についているテラス(ベランダ?)に飛び込んだ。文字通り、飛び込んだ。手すりにつかまるとかではなく、テラスに一気にダイブした。テラスの向こう側の事は、私からは見えない。我が家のベランダ周辺で旋回していた二羽のカラス達も、急いでその後を追った。一羽はそのビルの手すりに掴まり、テラスの内側を覗いていた。もう1羽はビルの屋上にとまった。二羽とも大声で鳴きわめき続けていた。

 ほっと息をついた。とにかく、消えてくれた。ああ、よかった。おそるおそるベランダを眺める。あちこちに白い糞が垂れている。今までここにカラスがいたのだ。ああ、気持ち悪い。掃除しなきゃ。一瞬、なかった事にしてリビングに逃げようかと思ったが、いやいや駄目だ、今掃除しなきゃ、後回しにすればする程しんどくなる、と思いなおした。

 マスクをし、ビニール手袋を二重にはめ、ぬげないように手首のところで輪ゴムで止めた。ボロ布を大量に持ってきて、半分はハイタ―を入れた液で濡らして絞った。ハイタ―は万能の消毒薬だと聞いている。O157も死滅させるとか。老人ホームや病院のトイレや食堂は、薄めたハイタ―で毎日拭いているのだとか。キッチン泡ハイタ―と、大きなビニール袋も持って来た。息を吸って止め、窓を開けた。とにかく白い糞の落ちている所には全てに、泡ハイタ―を大量に振りかけた。その上で、ハイタ―ごとボロ布で拭き取った。全ての白い糞をきれいにふき取った後、もう一度ベランダ中を、ハイタ―液がしみ込んだ布で拭きまくった。それからもう一度、乾いた布で拭き上げた。布は全てビニール袋に押し込み、口をキッチリ閉めた。更にその上から二重にビニールに入れて口を閉め、マンションのゴミシューターに捨てて来た。

 マスクとビニール手袋を外して捨て、よく手を洗い、うがいをした。着ていたTシャツとパンツを脱いで洗濯機に放り込み、新しいものを着た。それから、再びベランダまで行った。

 カラスが飛び込んだビルのテラスを見てみたが、変化はなかった。あいかわらず、一羽のカラスが手すりに掴まり鳴き、もう一羽のカラスは屋上で鳴いている。少し距離があるので、鳴き声ももうそれほど怖くも不気味にも感じない。仲間であろう二羽のカラスがまだビルに留まっているという事は、あの病気のカラスはテラスの床にでものびているのだろうか。

 目の前にいた時は、ただただ怖い、気持ち悪い、しかなかったが、目の前からいなくなった途端、なんだか気の毒になってきた。死にかけていた。かわいそうに、という気持ちになってきた。なんとか復帰して、元気に飛んでくれないかと、ビルをずっと眺めていたが、そこにいるのは仲間のカラスたちだけ。でも、仲間のカラス達が消えて行かないという事は、私から見えないテラスの内側で、あのカラスは倒れているのだろう。元気にならないかしら、と思いつつ、1時間以上眺めつづけた。昼前になって、買い物に行かねばならなくなった。

 小一時間ほど買い物に行って、帰って来たら、あの二羽の仲間のカラス達が、消えていた。病気のカラスは元気になって飛んで行ったのだろうか。それとも、死んでしまったから仲間たちは諦めて、いなくなったのだろうか。

 窓からビルを眺めながら、元気になってくれていたらいいのに、と思っていた。我が家のベランダはピカピカに磨かれて、きれいになっていた。 

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