書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

言った側の「つもり」、受け取った側の「つもり」。

 時々、こういう事を発言される方がおられる。

「私の言った事を、私の意図通りに受け取らず、勝手に歪めて解釈する人がいる。私がどんなに懇切丁寧に語ろうとも、受け取る側の心が拗ねていたり歪んでいれば、私の意図は相手に正しく伝わらない」

 こういう内容の発言をされる方は時々おられるが、私は共感できない。人と人が存在した場合、各々の意見や言い分がいつもかつも一致する、という事はあり得ない。意見を発言する側の「つもり」と、その発言を受け取る側の「つもり」が、一致しない事は往々にしてある。そういう時、どちらが悪い、間違っている、と決める作業は、不毛であると私は思っている。

 人間の持つ現状維持バイアスは強力で、誰しもが自分は変わる必要はなく、相手こそが変わる必要があるのだ、と思っている。勿論私もそうだ。何か意見の相違があれば、誰だって自分が正しく、相手が間違っていると思う。変わる必要があるのは自分ではなく、相手のほうである、と思う。だって自分は正しく相手が間違っているのだから、と双方が思っている。だから、どちらの「つもり」が正しいのか、話し合いをしたところで、双方がただただ自分の言い分を相手に押し付け、認めさせようとするだけで、相手の言い分を認めようとはしないのだから、不毛なやりとりが続くだけの事だ。

 だが、先に書いたような方は、ご自身が発言者側に立った時は発言者側の「つもり」が正しく、ご自身が受け取り側に立った時は、受け取り側の「つもり」が正しい、と決め付け、その前提でもって相手を銃弾なさる。つまり「私の意見を正しく受け止められないのは、あなたが拗ねているからです。あなたの心が歪んでいるからです」と。つまり、自分は絶対に正しい、という前提を崩さない。自分の「つもり」を曲げて、相手の「つもり」を受け入れるなどという事はする気が一切ない。その方は、ご自身が絶対的に正しいと思い込んでおられるが、客観的な第三者が遠くから眺めれば、その方のほうが正しくなかったりする。

 どちらが正しいのかハッキリさせよう、というやりとりは、不毛なだけではない。不要な恨みを買ってしまうという危険も大きい。こちらの危険のほうが、問題は大きいと思う。恨まれる危険を推してまで、自分の正しさを認めさせることはない、と私は思っている。気分はスッキリしないが、速やかに「退く」のが一番だと思っている。