書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

理屈と屁理屈。

 今日考えたことを書きます。

 「理屈」というのが、ありますよね。筋の通った一連の考えのことです。物事の筋道のことです。

 一方で、「屁理屈」というのも、あります。辞書には「筋の通らない理屈」のことだと書いてあります。無理矢理なつじつま合わせ、こじつけの理論、のことです。

 理屈と屁理屈が、入り乱れているのが、現実世界だと私は思います。

 屁理屈って、無理矢理にでもつじつまは合わせているので、一見、筋が通っているように見えたりするのです。

 でもまあ。屁理屈は、長い目でみれば結局は通らないので、日常的に屁理屈を言いながら生きている人は、どこかの時点で行き詰ります。一生、屁理屈を通して生きてはいけません。だから、屁理屈は、できるだけ控えたほうがいいと思います。

 

 下に書いた会話は、私の個人的経験とは違うのですが、ネット上で興味深く拝読したものです。屁理屈の分かりやすい例としてご紹介します(当事者の方には申し訳ありません。かなり昔に読んだので、記憶をもとに書きました)。

・・・・・・・

 (AさんがBさんに、再三、迷惑や暴言を繰り返している、という前提があります)

Bさん「いい加減、迷惑なことはやめてよ」

Aさん「人から嫌な事をされてイヤなら、自分自身が嫌な人になればいいのよ。いい子でいるから、周囲が嫌な人に見えるのよ」

Bさん「私は人に嫌な思いはさせたくないし、嫌な人間になどなりたくない。嫌な人間になる事を人に勧めるなんて、あなたは失礼な人だ」

Aさん「あなたは私の事を、失礼な人だと言うけれど、人に対して『あなたは失礼な人だ』と言う事って、失礼なことじゃないの? あなたから失礼な人だと言われて、私は嫌な思いをしたよ。あなたは『人に嫌な思いはさせたくない』って言ってるけど、矛盾してるよね」

・・・・

 Aさんの言が、まさに屁理屈だなあと感じたわけなのです。

 Aさんの言っている事は、一見理屈が通っているように見えます。でも、よくよく考えるとおかしいのです。

 人に対して、「あなたは失礼な人だ」と発言する事は、本当に相手が失礼な人の場合なら、正しい事だからです。失礼な人が、人から「あなたは失礼ですね」と言われて嫌な思いをするのは、自業自得です。

 Bさんの言う「人に嫌な思いをさせたくない」というのは、迷惑や暴言を繰り返す人間にはなりたくない、ということです。

   明らかに悪い相手が、それを指摘されて嫌な思いをしたとしても、指摘した人間は「嫌な人間」とはなりません。むしろ「正しい人間」です。

 Bさんの発言がこういう意味を内包している事は、言外に分かります。でもAさんは、この「言外に分かる事」をあえて無視して、文字通りの言葉面だけをとらえて、屁理屈を言っているわけです。

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 屁理屈は、歪んではいても、当面の自己正当化ができるので、便利です。なので、嘘を全くつかずに生きていく事が難しいのと同じで、屁理屈を全く言わずに生きていく事もまた、なかなか困難です。私も、気が付いたら、言ってしまっている時があります。

 なので、心がけとして、屁理屈はできるだけ減らす、という風に考えたいです。モノゴトを真正面から無理なく捉えて、シンプルに生きていくほうが、やはりどう考えても確実です。屁理屈で論破した気になるのは、危うい生き方です。

 

 ただ、洒落で屁理屈を言うのはOKだと思います。自分が間違っていると分かっているという前提にあるからです。その人自身も含め、その場の全員がその人が間違っていると了解した状態で、わざとその人が屁理屈をこねて見せるというのは、滑稽なジョークでありコミカルで面白いです。

 それでも。

 ジョークというのは意外と難しく、本人はジョークで屁理屈を言っているつもりでも、心の中に一ミリでも「自分は悪くない。自分は正しい。それをさりげなくジョークにまぎらせてアピールしたい」という我の気持ちがあると、それはジョークには聞こえません。正真正銘の屁理屈に聞こえ、周囲を辟易させます。

 ジョークの難しさについては、長くなるので、次回書きたいと思います。