書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

空白の癒し

 ブログを書く理由は、リラックスできるからだ。私はどうも無意識に頭の中で、先の段取りを立ててしまう癖がある。今日一日の、これから一週間の、一カ月の、一年の段取りを。状況は刻々と変わるので、それに合わせて段取りも刻々と微調整している。それを無意識に連続的にせわしなく行っている。

 小さい頃から、要領がいい子、と言われてきた。私からすれば、要領がいいのではなく、段取りがいいのだ。常に、物事が滞りなく運ぶように、先に先に段取りを考えているから、結果要領がよく見える。けれど自分としては、それが疲れる。頭が常に忙しい。何につけ気が抜けない。書いている時は、その段取り癖から離れられる。

 よほど人に言えない事は日記に書くが、日記は閉塞感がきつい。どこにも抜けがない。密閉された容器の中で書いている感じがする。それに比べてブログは、細い隙間ではあるが、大海へ抜けている感じがする。密閉されていないのだ。外の世界との間に、ごく小さい割れ目が開いている。この小ささがいい。

 日記とブログ以外にも、5年に一度くらいの頻度で小説も書いて文芸誌に応募している。外の世界に対する開け方として、日記がゼロ、ブログが小さい隙間、だとしたら、小説応募は全面公開だ。気疲れはマックスだが、それでも、「これは書きたい」という思いが湧いてくると書く事にしている。応募結果は、たいてい1次は通り、2次も通る事が多いが、最終選考には通らない。落とされた時は、「なんで?」と不満になるが、時を経て過去の自分の文章を読み返してみると、よくこれで応募できたものだと稚拙さに呆れる。稚拙というと、稚拙という言葉に失礼なほど、稚拙なのだ。その時は、「これは新しい世界観だ」と意気込んで書いていたものが、今読み返してみると、それはその年齢の人間ならみんな通ったありふれた道だよ、と思うし、そもそも「面白いものを書きたい」という思いが先に立ち過ぎて全体が臭い。読んでいて、あざとさやわざとらしさで背中が薄寒くなるのだが、不思議なもので、そういう事に、書いている時は全く気が付かない。これが才能の無さというものなのだと思う。

 しかし、私のような神経質で偏狭で体も弱い人間が、なんとか生きてこれているのは、書くという行為が存在するからだと思う。書く事にだけは自然に集中できるので、その間だけは他の事から頭が解放され、その空白に癒しがある。