書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

勝負はスタート以前に決まる

 一昨年にひっそり始めたこのブログ、最近気づいたのですが、発達障害のある種のワードで検索すると、ヤフーやグーグルで最初の画面に出てきているのですね。読者数が少ないので気楽に書いていたのですが、チェックしてみるとアクセス数もそこそこ上がっていて、特に発達障害関連の方に多く読んで頂いているという事が分かりました。お気楽に書き殴っているわけにはいかないなあと気づいたので、少しだけ前置きを書かせてください<(_ _)>。

 読んで下さっている方々は、きっと、私の息子と、ご自身のお子様を比べられたり、また、私の子育てとご自身の子育てを比べられたり、されているのだろうと思います。

 でも発達障害児は千差万別で、百人いたら百通り、千人いたら千通りの個性があり、一人として同じタイプの発達障害児はいない、という事。これは耳たこで、皆様ご存じだとは思うのですが。。

 また、発達障害をとりまく環境も、この同じ日本であっても、地域によって、学校によって、全く異なるという事。同じ市内の隣りの学校ですら、全く異なる場合すらあります。

 なので、私がやった子育てと同じ子育てをしたら、ウチの息子と同じ子供が出来上がるわけではないし、私がやらなかった子育てが間違っているわけでもないわけで。ここに書いている事はあくまでも、「一例」である、という事を、お断りさせて下さい。

 私がここに書いている事は、あくまでも私個人の意見であり、全ての発達障害児育児に共通する「指針」のようなものではありません。私が暮らしている環境で、私の息子のようなタイプの発達障害児を、私という人間が育ててきた経験からの、個人的な意見であって、それ以上でも以下でもないので。

 「個人的な意見」が何かの参考になる場合もあるだろうし、また逆に、他人の「個人的な意見」を目にする事でご自身の子育て方針がぐらついてしまう弊害もあると思います。そのへんはご自身のご判断で、どうぞよしなにして頂けたら、と切に願います。

 正直、私としては、同じ発達障害児を持つ親として、どなたかの少しでも助けになればいいなあ、という思いで書いていることは事実なんです。あるいは、苦しんでいる発達障害児が一人でも減ればいいなあ、という思いもあります。でもそれが、余計なおせっかいになる場合もあると思うので。

 すみません。前置きが長くなりました。本題に入ります。

 新学期になって、子供の学校生活が気になっております。

 親としては精一杯の手立ては打ったつもりなのですが、それでも、親が手出しできない部分も当然あり。そういう「運」の部分については、神社で必死で「神頼み」。やれる事は全部やったというまな板の上の鯉状態で、これからしばらく息子の様子を見守っていく事になります。

 静かなクラスだといいなあ。あまり休まない、気が利く優しい先生だといいなあ。お友達ができるできないはその後の話。息子にとって、クラスの静かさ(煩さ)と、担任の先生がどういう方か、がまずは全てで、そこで生き死にが決まります。とりあえず、無事に生きていけるクラスでありますように。

 こんな、自分の日々すら不安な私が、上から目線で書くのもおかしな話ですが、発達障害の子供にとって、無事に学校生活を送れる手立てを打つのは、新学期スタート時点ではもう遅いように思います。

 スタート時点ですでに担任の先生もクラスメートも全部決まっているし、新学期が始まると同時に担任の先生の中で、新学期を進める段取りが出来上がっているので、そこに横やりを入れる形になってしまい、迷惑がられてしまうか、「無理です」と言われてしまうからです。

 私は三学期に入ったら、次年度のことを学校に相談に行く、という形でずっとやってきて、結構うまくやれてきたので、先手先手でいくのが無難だと感じます。

 とはいえ、子供の事を学校に相談に行くのは、気が重いです。胃が痛みます。また、子供自身がどんどん成長している(変化している)ので、来年度どんな状態になっているのか、予測が難しい面もあります。そういうもろもろのせいで、学校に相談に行くのが後手後手になりがちだと思います。

 でも、そこを踏ん張って、早め早めに行く事が、やっぱり良いように思います。

 あとは、学校側の対応に、どんなに理不尽さを感じても、絶対に言い争わず、むしろ日々お礼を言い、学校側を立てて、担任の先生を立てて、頭を下げ続ける事も大事。学校任せ、先生任せにせず、親自身が誰よりも恥をかく事、汗をかく事も大事。親側の誠意を見せる事で、学校側も動いてくれる場合があります。とエラそうに書いてますが、他のお母様方もみなさん、されている事かもしれません(私だけではない)。

 それでも新学期に不安はつきもので、しばらくの間は丁寧に子供の様子を見守っていこうと思っています。ああ、胃が痛い(笑)。

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  ちなみに。こういう事を書くと「もっと子供の力を信用して」と言われてしまう事があるのですが。私は子供の力を信用しているし、子供を信頼していないわけではないのです。過保護のつもりもありません。

 ただ、子供に障害がある、というだけの事なのです。

 健常者が普通に持っているコミュニケーション能力が、発達障害の息子には「無い」という事なのです。

 努力すれば伸びるとか、身についてくる、とかそういう問題ではなく、そもそも息子の脳には広い意味での「コミュニケーション能力」に関わる部分が欠落しているのです(だからこその障害)。努力ややる気で、「無い」ものを「有る」に変える事は不可能なのです。

 では、息子はどうやって他者とコミュニケーションをとっているのか、と言えば、全て「訓練の結果」でやっています。「訓練」とは「記憶力を使う事」です。

 こういう時にはこうする。人がこう言った時はこういう気持ちでいるという事。こういう言葉は使ってはいけない。一つひとつ、独立したケースバイケースを頭に詰め込んでいて(その為、幼い頃から療育に通い続けました)、人とコミュニケーションを取る時は、その記憶の膨大な棚から、必要な情報をひっぱり出してきて再現しているのです。こういう訓練は、荒れた現場に強制的に押しやったら経験から自然に身についていく、というものでは絶対になく、落ち着いた環境で、訓練者と一つひとつ確認しながら覚えていく作業(療育)でしか、身に付きません。

 息子は、健常者の脳とは全く違うやり方で、他者とコミュニケーションをとっているわけです。

 なので、反応が遅いし、記憶の棚に入っていないものには対応できないし、間違った記憶をひっぱり出してしまう場合もあります。また、こういう作業自体が息子をひたすら疲弊させます。

 だから、学校に通う、という事、クラスで一日生活する、人と関わる、という事は息子にとって、疲れ切る事なのです。

 それでも、比較的落ち着いたクラスで、理解のある担生だと、息子の疲弊は軽減されます。逆だと死にそうになります。

 クラスと担任の先生次第で、息子の生き死にが決まる、というのは、そういう事なのです。あああ、今年はどうなることか。すでに新学期がスタートしてしまった今は、ただ祈るしかありません。