書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

フンコロガシ人生(続き)

 前回、私の人生は、フンコロガシみたいだと書きました。ちょっと時間ができたので、その続きを書きます。

 フンコロガシは、他の生き物の糞を集めて回るのが仕事で、それは自分が食べる為ではなく(自分にメリットは何もなく)、自分の子供達の栄養源にするわけですが、子供達がふ化してきた頃には、自分は死んでいますから、子供達が無事に育つのを見守る喜びすら、フンコロガシには望めません。

 フンコロガシが、糞を集めるのを止めたとしたら。それでも自分は困らない。困るのは、後にふ化してくる子供達で、その時自分はもう死んでいるので、知ったこっちゃないわけです。だから多くのフンコロガシの中にはきっと、フンを集めるのを放棄したフンコロガシも少数ながらいることでしょう。そういうフンコロガシの子供が育たなくても、別に大勢に影響はない、少しだけフンコロガシの総数が減るというだけで。何の問題もないっちゃあ、何の問題もない。

 

 私が自分をフンコロガシだと思うのは、私がそれなりに疲弊しながら日々健闘している事は、直接的には私自身に、何のメリットもない事だからです。糞を集めて回る事も、(実母や)息子の我儘勝手に付き合い精一杯力を尽くして相手をしてやる事も、ただただ徒労するだけで、私自身にメリットは何もありません。しかも、そんな事は誰もやりがたらない事、みんながしたくない事。糞を集めて回るのと同じです。みんなそんな事したくない。でも、それが私の仕事。

 とはいえ、私が彼等の相手を止めたら、実母はともかく、息子はまともに生きていけません。通常の生活が送れなくなり、精神が崩壊して、最後は地獄に真っ逆さまです。そうなったら、精神病院に入院させる、施設に預けるなどの手段をとって、彼を私の人生から排除する事も可能は可能です。

 でも、私はそれはしたくない。私らしくない、と感じます。

 

 糞を集めて回らないフンコロガシは、フンコロガシではありません。

 発達障害の息子を排除する私は、私ではありません。

 

 息子がまだ小さかった頃は、発達障害育児に疲弊し、私の人生はこれで終わるのかと絶望もしました。でも、今は、これが私の人生なのだなと感じます。別に気負っているわけではなく、私の人生はフンコロガシだったんだなと思うわけです。

 フンコロガシとして生まれたんだから、フンコロガシとして生きていけばいいし、そこに意味なんてないんです。

 

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 私が死んだ後、私が息子に延々付き合った時間が、息子の栄養になると私は思っています。フンコロガシの子供が、親が死んだ後、親が集めてくれたフンを栄養とするように。

 私が息子に対してしている事は、躾や何かを教える事ではなく、ただ息子の話を聞いて肯定し、息子の不安を聞いて解決策を考え、息子の行く末に安心感を与える事です。それを延々やっています。

 私が死んだ後、息子は私無しで生きていかねばなりませんが、肯定された記憶・何事も解決できるという安心感が、彼を生き続けさせてくれるのではないかと、私は思っています。私が死んだ後に起こる事なので、私はそれを見ることは出来ませんが。

 ひたすら息子の相手をしている間、私はフンをころがしているのだと考えます。このフンが、私無き後の、息子の栄養になるのだろうと思うのです。